人生の妙味は、「事物の意外な関係性」を発見することにアリ。
数ヶ月前に、下のツイートがすごくバズっていたので見かけた人も多いのではないだろうか。
私に関して言うと「この関係性の発見はすごいな!!」と物凄く興奮した覚えがある。
そしてこの頃から、街中や公共交通機関でスマホを眺める人たちを観た時に、こみ上げてくるものが明らかに変化した。
私はこれまで「人生の妙味(=何とも言えない味わい)とは一体なんだろうか?」といったことを時折考えたりしてきた。
社会に大きな影響を及ぼす事を為すことだろうか?
本当に信頼できる友と出会うことだろうか?
死ぬまで忘れることもない景色を観ることだろうか?
思わず笑みが溢れてしまうほど美味い物を喰らうことだろうか?
大切な人と日々の暮らしを共にすることだろうか?
いずれにしても「人生の妙味」と言えるのかもしれない。
しかし、私にとってはこれらを「妙味」と呼ぶにはちょっと違うような気がしていた。
ましてや人の舌のことになれば尚更わからない。
結局、自分の舌が人生において何を妙味と感じるのか?については、つい最近まで納得のいく言語化はできていなかった。
ところが「スマホ=大人のおしゃぶり」というツイートを見たことをきっかけに、自分にとって「これは人生の妙味だ」と心から思える言葉がやっとこさ出てきたのだ。
それが、人生の妙味は、事物の「意外な関係性」を発見することにアリ、というものである。
建築家ガウディの「夫婦のイス」
話は変わるが、私は以前、建築家のアントニオ・ガウディがデザインした「夫婦のイス」という作品の「意味するところ」を知って感銘を受けたことがある。
このイスは見てのとおり二脚で1セットの作品だ。
しかし、それぞれは向き合ってはいなく、夫と妻が90度の角度で接して座るという不思議な形をしている。
「なぜ夫婦のイスなのに、こんな形をしているのだろう?」
そう疑問に思っていたところ、小説家で、臨済宗の僧侶である玄侑宗久氏の公式サイトの中で、納得のいく解釈を見つけることができた。
すわり心地という観点では、さまざまな椅子を試したこともある。
仕事をするにせよ寛ぐにせよ、椅子がいろんな自分を演出してくれることも感じてはいた。
しかしガウディの「夫婦の椅子」は、当時独身だった私に、夫婦の在り方そのものを明確に示してくれたのである。
その椅子は、二つの椅子が九十度の角度で開いたまま一体化していた。
夫婦で坐れば、おそらく二人の肩がかすかにふれあうだろう。
夫婦は共に椅子に坐る時間をもつべきなのだと、まずその椅子は主張していた。そうでなければ椅子が一体化している意味はない。
しかもその場合、二人の興味の中心は九十度も違っていていいのだ。
たとえば恋人ならば、同じ星を並んで見上げるベンチに坐ってもいい。また視界はまったく違っても、二人向き合ってお互いを見つめ合うものいいだろう。
しかし夫婦とは、たぶんそんなに無理をしたり酔いしれたりする関係ではないのだ。
直角に開いた椅子に坐った二人は、少し首を捻れば相手と同じ星を見ることもできる。正面つまり興味の中心は違っても、相手の正面の景色を想像することはできるはずである。
しかし直角の意味とは、おそらくそうではない。
意志すれば相手の存在を感じられる角度なのも確かだが、それは没頭すれば忘れて「独り」になれる角度なのだ。
正坐と同じ「待機」と「禅定」が、この椅子では夫婦で実現できそうなのである。(太線は筆者)
以前、知人の結婚式に出席した時、
「二人はお互いを見つめ合うばかりではなく、時には同じ方向を見つめて一緒に歩んでいきましょう」
という言葉を耳にしたことがあったが、何も「向かい合って見つめ合う」ことと「同じ方向を向いて歩いていく」ことの二択だけではない。
恋人のように並んで座るのでもなく、90度の角度で接していて、首を少し傾けると同じ星が見えるような位置関係。
思うに、これが「一番夫婦がうまくいく関係」だとガウディは考えたのだろう。
『夫婦は、90度の角度で接していて、首を少し傾けると同じ星が見えるような関係の方がうまくいく』
これは私にとって間違いなく「事物の意外な関係性の発見」となった。
「A→B」がダメなら「A→C→B」
意外な関係性の発見という体験は他にもある。
昔の話にはなるが、私は小学2年生の頃から、少年サッカーのコーチをしていた父の影響で「サッカー」をはじめた。
最初はほとんど強制的にやりはじめたものだったが、蓋を開けてみれば高校3年生まで続けていたことを思うと、仕事もそうだが面白さが分かるようになるには何事も結構な時間がかかるのだろう。
そして、サッカーを介して学んだ事は幾つもある。
中でもこれまでの時間の中でよく活きたものと言えば、
「A→B」がダメなら、C地点を挟んで「A→C→B」にする。
というものだろう。
何かというと、試合中「A→B」とパスを通したいと思った時、その間に相手選手が立ち塞がり、Bまで思い通りにパスを通せないという事がよく起こる。
このような場合、別の「C」地点にいる味方選手を介すことで、Bまでボールを通すことを考えたりしていた。
これはサッカーやバスケットボール経験者には言うまでもないことだと思う。
図で書くと下のような感じだ。
そして、この考え方が「ビジネスの現場」でもよく活きたのだ。
例えば、
・商品やサービスを私(A)から顧客(B)に直接販売するよりも、別の誰か(C)に「口コミ」していただく方が遥かに売れた。
・私(A)が部下に(B)にあるメッセージを伝えたい場合、適切に引用(C)することでメッセージをスムーズに伝えることができた。
・いきなり大きな仕事(B)を任せてもらう事は難しかったが、小さな仕事(C)を挟みそこで実績を作ることで、大きな仕事(B)を任せてもらえるようになった。
いずれも私は、「A→B」がダメなら、C地点を挟んで「A→C→B」にする、という考え方とほぼ「同一」なものとして捉えた。
実際には、ビジネスの現場経験を積んでいくたびに
「これってサッカーの考え方と同じじゃない?」
というような具合に双方の間の「意外な関係性」を発見していった。
「アナロジー」とは、概念的な類似性を見出す力のこと
そして、つい最近も「くだらない会話があるから真面目な会話がある」という捉え方は「ダメなアイデアが続かないといいアイデアが出ない」とほぼ同一である、といった「意外な関係性」の発見をするに至ったばかりである。
「くだらない会話があるからこそ、真面目な会話をしようと思える」は、「ダメなアイデアが続くから、いいアイデアが出る」にとても似ていると。
参考:仕事の飲み会における「くだらない会話」にも大きな価値があることが、ようやく分かった。
思うに万物は、A−B、A→B、A⇆B、A=B、A|B、A≒B、A>B、といったように様々な関係性によって絡めとられ、内在している。
こうした関係性は、古くも新しくもなるし、長くも短くもなるし、切れたりまた繋がったりもする。
それはどこか「生き物」ようにも思えてくる。
ノースウエスタン大学の心理学教授のデドレー・ゲントナー氏は
「さまざまなことを関係で考える能力こそが、人間が地球を支配している理由の一つだと思う。」
「他の種にとって、関係を理解するのはかなり難しい。」
と述べている。
<参考文献>
特に、
・新しいものを馴染み深いものにする
・馴染み深いものに新たな光を当てる
・馴染みのない文脈のみたこともない問題について考えることを可能にする
・全く見えないものでも理解できるようにする
このような関係を見出す思考法を「アナロジー(=類推:類似しているものから推し量ること)」と呼ぶ。
そして、ゲントナー氏は、アナロジーは現代のような意地悪な世界の問題を解こうとする時にはかなり強力なツールになると主張する。
アナロジーには深くなればなるほど、表面上はほとんど共通性が無いように見える領域やシナリオの間に、概念的な類似性を見出す力があり、
この力は、不確実性が高く、事物が複雑に絡み合っている現代に最も効果を発揮するというのだ。
話は冒頭の「スマホ=大人のおしゃぶり」だ。
この関係性はまさに「アナロジー」によって見出された関係性と言ってほぼ間違いないだろう(年柄年中加えているもの、という共通性)。
そして、私が今までに経験してきた「意外な関係性の発見」というのも、深度の程度に差はあれど「アナロジー」の発動によって見出された関係性なのだと思う。
「事物の意外な関係性」を発見した時の「知的興奮」がものすごい
最後に、なぜ私が「事物の意外な関係性の発見」を「人生の妙味」だと思ったのか?について。
端的に言えば、それを発見した時に、えも言われぬ「知的興奮」が脳を直撃するからである。
冒頭に挙げた「スマホは大人のおしゃぶり」の時のように、誰かが見つけた「事物の意外な関係性」を知った時の知的興奮も当然すごい。
だが、「A→B」がダメなら、C地点を挟んで「A→C→B」にするの話のように、自らした経験を通して、意外な関係性を発見してしまった時というのは、本当にえも言われぬ知的興奮が脳内をズバーンと走る。
そして、ゲントナー氏の報告が真だとするならば、この気持ち良さを味わえるのは種としては人間という動物だけに限られる。
したがって、この気持ち良さを味わうということは「人間を人間たらしめること」になるのではないか、と思うのだ。
例えば「陰謀論」にハマっている人というのは、誰も気づかないような「事物の意外な関係性」を発見しまくっているわけで、おそらく彼らの脳内も相当な知的興奮が爆発している。
思うに、それが生産的な活動かどうかはさて置き、当の本人達はめちゃくちゃ楽しいに違いない。
私自身、陰謀論を追いかけるようなことはしていないのだが(時折見ることはある)、それが「事物の意外な関係性の発見」だと捉えれば、彼らが気持ち良くなっていることは想像するにた易い。
多分これも一つの「アナロジー」と言えるのだと思う。
『人生の妙味は、事物の「意外な関係性」を発見することにアリ』
こんな具合に、私にとっての「人生の妙味」についてはめでたくここで一旦言語化することができた。
だが、もしかしたらこの妙味に対しての「意外な関係性」がこの先別に発見される可能性も十分にあり得る。
それもそれで良しとして。
その時が訪れるまでは、今辿り着いたこの「人生の妙味」を存分に味わい愉しんでいきたいと思う。
【最後に一言と著者プロフィール】
「スマホは大人のおしゃぶり」の通りに、「事物の意外な関係性」というのは、相手の理解を促進する力もあると思っています。これも発見する上での一つの愉しみだと言えるかもしれません。
著者:田中 新吾
お客様(企業や自治体やNPO)が求めるプロジェクトの歯車になるのが仕事。プロジェクト推進支援専門のハグルマニ(https://hagurumani.jp)代表。PJメンバー共通の景色となるネーミングやコンセプトの構築もします。タスクシュート認定トレーナーとして自分らしい時間的豊かさを追求する方々の支援にも注力中。
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
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