「依存症」から抜け出すには、苦痛を減らすことに尽きる。私は「快感の自家発電」もしていきたい。
最近、ゲームやSNS、YouTube、ネットフリックスなどにはまってとてつもない時間をそこに割いている若者がいることを聞くようになり、また、「沼にハマる」という言葉が飛び交うようになった。
厚労省の調査によると、「ネット依存」が疑われる人は、
成人 約421万人
中高生 約93万人
(2017年)
WHO(世界保健機関)は、2019年に「ゲーム障害」を国際疾病として正式に認定し、2022年1月から患者数のカウントが始まっているという。
その一方で、自動車にも全く興味がなかったり、テレビを持っていなかったり、スマホを見る時間を限定しているというような若者に出会うようにもなった。
こちらの本には、依存症ビジネスがどのように作られているかについて書かれていて、
<僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた>
現代の商品やサービスがそれにはまるように巧妙に作られているから、成り行きに任せずに意識的に習慣を変えるなどしないといけない、と警鐘を鳴らしている。
いかにして病みつきにさせるかが、ビジネス成功のポイントになっているというのだ。
上記若者の例は、快感を得るものが溢れている非常に豊かな時代にあってその豊かさを十二分に享受している人と、一方ではそこに興味がないかあるいはその危険をわかっていて避けている人が分かれている様を表しているように見える。
戦後の3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス)が依存症づくりのスタートだったようにも感じられるのだが、自由を目指すが自由になれない私としては、自由の対極にあるような依存症、あるいは、依存について考えないわけにはいかない。
そういうわけでお付き合いをお願いしたい。
依存症とは
依存症とは、日常生活に支障をきたしているにもかかわらず、特定の物質や行動をやめることができない状態のことであり、その種類は以下のように多岐に渡る。
出典:【特集】さまざまな依存症の種類一覧 原因・症状・治療法まとめ
依存症に医学的な定義は存在せず、「不健康にのめりこんだ・はまった・とらわれた習慣」、英語でアディクション、日本語では嗜癖しへき(あるいは、病みつき状態)として幅広く捉えている。
※中略したものを掲載しています。
どこからが病気なのかについて線引きができないし、依存症の人の脳に何らかの異常があるとも認められていない。
<依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実>
これらのことから、誰もが多かれ少なかれアディクション(病みつき状態)であると見るべきなのだろうと思う。
たしかに、最も危険な薬物だけでなく、身近にも砂糖、コーヒーなど中毒性があるものが溢れていたりもする。
現代は飽食の時代であって、過剰に食べてしまう中毒は現代人のトップクラスの問題であるのだろう。
私にとって、最も危ないものはアルコール依存だ、という自覚がある。
サラリーマン時代の一時期は間違いなくアルコール依存だったと思う。
当時は、眠くなるから酒量にたまたま制限がかかり、最近は、年をとって具合が悪くなるのが早いから、酒量に制限がかかる、という具合に、何とか依存症の進行を免れているようなところがある。
カラオケもお酒が入らないと全く行きたいとは思わない。
酒の力でカラオケを大いに愉しむ自分を後から発見して、気が小さくて何とも情けなく感じる。
ずいぶん前に、これは危険だ、と感じた瞬間がある。
ちょうど、テレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』が私の周りで評判になった頃だった。
周りはその話で盛り上がっていて、私はついていけない。
肩身の狭い思いをしたのだが、結局、私は1話くらいしか見なかった。
このドラマは全部で10シーズンあるらしく、はまっていたら一体どのくらいの時間が奪われただろうか?と思うとはまらなくて良かった。
では、この依存症の原因を、苦痛を避けるためであるとしている。
人は、日常生活でのストレスから逃れるために別の快感を求めるもので、理性の抑制から脳が解放されるためにアルコールを欲したり、ギャンブルのスリルがたまらない快感になったりしている。
新たな快感を得られるようになることを、専門用語で脳に新たな報酬系が構築される、というらしい。
新たな報酬系ができて、苦痛を一時忘れたり、苦痛を紛らわしたりしている。
人生が苦しくて自死に至るケースもあるが、そこのルートではなく快感を得る別のルートをたどることで自死を避けていると見ることもできる。
依存症の人の脳に異常が認められないことなどからも、新しい報酬系の構築は、生きていくために必要な反応である、と見ることが妥当なのではないかと思う。
経験をDNAに刻みながら、ここまで種をつないできた人間が簡単に狂い出すことは考えづらい。
依存症にならないために
人間が生きながらえるための方法として、依存症を生み出していると考えてみる。
自死を依存症によって免れた種は、次の段階で今度は依存症によって生きながらえることに支障が出てきてしまっている。
こうして見ると依存症にならないためには報酬系が構築されてしまう前に、苦痛を取り除く必要がある、と理解せざるを得ない。
紛らわす必要のある苦痛が少なくなれば、快感が感じられる行為について、コントロールする余裕を持てる、と思える。
ではこの苦痛がどこから来るかというと、様々な要因があるのだが、その一つに前回記事で書いた自己肯定感の低さが上げられると思う。
前回記事『自己肯定感が低いのは、正しいことをまともに信じるからである。』
周りの人を含む環境が自分にとって苦痛ならば、環境を変える必要があるのだが、環境が変えられないとしても解釈を変えないと苦痛が残ることになる。
自分をダメだと解釈して自分を責めたりするような苦痛は除外しないとならない。
真面目で几帳面な人が依存症になりやすいという傾向があるようで、このことが真面目な人に自己肯定感が低い人が多い傾向にあることとつながる。
更には、日本人は自己肯定感が低い人が多いのだが、同様に日本人にギャンブル好きも多い。
見事に符合している。
もう一つ付け加えたいことがある。
近年、情報が世界を巡るようになったことが、自己肯定感の低下を助長しているように思う。
何をするにしても世界には自分よりすごい人がいることがわかってしまう時代になった。
そんな時代だからこそ、自分を好きになり、自分に納得する解釈が必要であって、日々ご機嫌よく生きることが大切なのだと納得する。
ご機嫌な生活をすることで必要以上の快感は要らなくなり、結果、依存症を遠ざけることになるのだろうと思う。
ここで書いていることは机上の理屈であって、依存症になってしまった人にとって実際には簡単にいかないようにも思うのだが、一旦、このように結論付けてみた。
依存について
ここからは、依存症を少し離れて『依存』について考えてみたい。
人はひとりでは生きていけないから、依存のすべてを否定することには無理がある。
このことを前提としながらも、依存についての問題をあげてみたい。
裕福な家庭に育った子供が、大人になって自分で判断して稼いでいく力が育たずに苦労することがある。
親に依存することによるものと言われたりする。
一方の親は、自分の夢を子供に託して子供への干渉をやめない。
子供に愛を注ぐということを建前としながらも、子供に依存している。
これが親子の共依存と言われる。
また、仕事だけに注力して、奥さんに家のことを任せてきたお父さんは、退職後全く役に立たなくなる。
奥さんに依存している。
その他にも日本は食料自給率が低いから、食料を他国に依存している。
日本の防衛は、建前上アメリカに依存する契約になったままである、というものもある。
いずれにしても依存という言葉には、自分を弱くする、支配されるといったネガティブな意味合いを感じる。
話は変わるが、「歴史の終わり幻想」というものがある。
これは、自分は、あるいは、自分の人生は、これ以降変わらないだろうと思う思想のことである。
この思想が作られる理由は、10年前と現在の違いは具体的に把握しやすいのに対して、10年先の変化は想像するのが難しいから、というなんとも都合のいいもののようだ。
自分というものを完成させる作業というのはここまでに終わっていて、後は維持するだけでいいという気持ちになる。
老化するということは、こういう言い訳をすることであって、それでよいのかもしれないのだが、あえて自分に鞭を打って指摘するとすると、このような思想を信じる心理の中にも楽なことへの依存が含まれていると思う。
これに限らずに、自分の信念の中に依存が含まれることがあって、そのような依存が自分にないのかチェックしたいものでもある。
依存に抗う
人は周りにお世話になっていて、それは別の言い方では、周りに依存して生きていることになる。
人は、周りに依存しないと生きられないものである。
しかし、依存による問題をいろいろ見ると、それでも生まれたからには自分で立って生きる必要があるのだと思える。
だから、依存をできるだけ断ち切って生きたい。
以前、依存せずに快感を得る方法はないのか?と考えたことがある。
美味しいという快感は食材を買ったり、レストランに行かないと得られないから、それは食材の生産者やレストランに依存していることになる。
面白いという快感は、TVやネットや映画や演劇などに依存していることになるし、人との会話も人に依存していることになる。
快感を自家発電する方法はないものだろうか?
それを考えた結果、それは自分なりの何かを創造することしかない、ということに至った。
自分が何かを作ること。
自分で何かを表現すること。
そして自分で思考することである。
作った時、表現した時の達成感や、自分が思考したことでの「あっ、そうか!」という気付き。
感じた人の優しさや愛、観察眼などなど。
自分だけで産み出せるもので、自分が幸せになれるものならば依存から一線を画すことができる。
そして安上がりでもある。
もちろん、ゼロから創造は難しいから、情報インプットなど周りへの依存とともにあるのだけれど、徐々に自分の創造を増やすことで依存を減らすことができるのだ。
冒頭の、依存症ビジネスの話に戻ると、現代はいろいろなものが便利になって、いろいろな快感を得られる商品やサービスで溢れるようになった。
サブスクリプション、見放題、食べ放題などの便利なものが依存にいざなうものであったりして、今後もテクノロジーの発展によって、更に快感に依存しやすい環境になっていくのだろうと思う。
苦痛やストレスがそのままで、場合によっては増大して、快感を得られる手段がより充実する社会になっていく予感がする。
ハイストレス(苦痛)、ハイプレジャー(快感)社会
苦痛を受けた分を快感で上塗りするような社会である。
これは好ましいことなのだろうか?
快感を得る前に、苦痛が減る社会に変化していくことはできないものだろうか?
そんな風に思う。
最後に苦痛を減らすべきとは言っても、人生は必ず苦痛やストレスを伴うものだから、その反動で快感というものは必要であると思うし、さらに言えば、結局人生は快感を味わうためにあるようなものだとも思う。
だから、快感の種類をどういうものにするのか?
快感をどの程度にするのか?
ということなのだろう。
どんな快感がどの程度いいか?
それは言えるものではない。
やり過ぎによって負荷がかかる快感は身を滅ぼし、快感を我慢することもこれも身を滅ぼすということになるだろう。
それぞれにそれぞれの人生があって、いい塩梅に快感が得られるようにして生きればいい、としかいいようがない。
ああでもない、こうでもないと結論がはっきりしない中身になってしまった。
申し訳ない。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
こうして結論がないにもかかわらず記事を書きたいのは、必要以上の苦痛を感じないように生きることを探究したい、という思いがあるのです。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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