排除したいものの有用性を学ぶ。~虚構の活用法~
ハッピーエンドの話を読み聞かせた子供とバッドエンドの話を読み聞かせた子供では、バッドエンドの話を読み聞かせた子供の方がクリエイティブに育つという研究がある、と聞いた。
ハッピーエンドは安心して気持ちよくなるのだが、それに満足してしまってそれ以上何も考えなくなるという。
これに対して、バッドエンドはショックも受けるが自分なりのハッピーエンドを想像して、聞いたバッドエンドを塗り替えようとするから、その分思考力が育つ、というのがその理由らしい。
だからと言ってバッドエンドだけを読み聞かせられて育つ子供は別の面で問題が起こるように思えるから、バランスが必要なのだろうと感じるところもある。
それはそれとして、このことは以前「不快感を愉しもう」という記事に書いた、人は負荷を与えられて不快を感じないと育たないものだ、ということにもつながる話だった。
参照:不快感を愉しもう!
ここから想像を広げると、想像上の理想郷=ユートピアなる場所で人間は、自立心や闘争心を削がれてアホになる可能性が大きい、というところにたどり着く。
人は描いたユートピアを求めるものではあるのだが、描いたユートピアは本当のユートピアではない可能性が高い。
人生には問題はなくなることがなくて、問題があることで人は成長させられる。
しかしだからと言って、問題がたくさんあればいいかというと問題につぶされてしまうこともあるから、適度な問題が必要だということになる。
問題をいくつかに限定してひとつひとつ解決していくことが成長しながらの充実した人生だ、と言えるのかもしれない。
このバッドエンド、不快感、問題といった一般的に排除したいものが、逆に人生にとって有用である、という考え方、これは陰陽論(物事はすべて光の部分と影の部分の両方を包含する)に含まれるものだろうと思う。
ここ数年で自分が共感している考え方のひとつだ。
自分がこれに対して共感が強い理由は、たぶんここまで自分が前向きにもユートピアを求めていたからなのだろう。
今になってその反動がかかっている。
さて、このように自分が排除したいものが他に存在してはいないだろうか?
それを見つけてその排除したいものの有用性を見つけられたなら、自分のバランスがとれてまた一皮向けるのではないだろうか?
そんな風に思って排除したいものを探してみると、すぐに見つかった。
虚構・嘘(フェイク)・フィクションは排除したい
「不都合な真実」という言葉は本や映画に登場して、ここ20年くらいで当たり前に使う言葉になったように思う。
ある人にとって不都合な事実は、虚構で隠されるものだ、という常識。
政治戦略で敵を貶める情報、メディアの切り取られた情報、様々なフェイクニュース。
責任逃れのためのフェイク、自分を美化するためのフェイク、それらを元にして世の中では日々舌戦が繰り広げられている。
やはり虚構に騙されては自分の生活が危ないので、自分は何とか騙されまいとして、ドキュメンタリー映画にハマった時期があった。
その時にはフィクション映画は単なる娯楽であってほとんど無価値だとまで思い込んだこともあった。
空想ばっかりが強い経営者やリーダーと一緒に仕事をして実現しなかった自分の経験が、この考え方の土台にあってドキュメンタリー好きを強固にした面もあるのだろう。
自分の中に出来上がった現実主義は、虚構、フィクション、フェイクがとにかく嫌いだ。
人は、現実を見ている時も虚構を見ている時も同じ脳が部位を使って認識しているらしい。
だから現実と虚構は区別しづらく、騙されやすい面があると聞いて、余計に虚構を排除したいという思いが強くなったわけだ。
虚構・嘘(フェイク)・フィクションの有用性
ここからはこの排除したいものに対して、逆に有用性に光を当てて一回並べてみようと思う。
当たり前のことも多いが普段考えることがなかったから、あらためて整理してみよう。
①優しい嘘は必要
何でも本音(事実、あるいは、自分が真実だと信じていること)を伝えてしまっては、人間関係がうまくいかずに殺伐とした世の中になってしまうわけで、時には優しい嘘というものが必要だというのが、現代のとりあえずの着地点なのではないだろうか?
②想像力が高まる
騙そうとするにしても、美化しようとするにしても、虚構を創作するということはある目標に向かっての戦略であって、その戦略的思考は想像力を高める。
もちろん、想像力が高まったことを、悪いことに使うか良いことに使うかで、物事はどちらにも転ぶので、想像力が高まることが有用と言い切るには語弊があるけれども。
現実主義の自分は、どちらかというと受け身的な観察者であって自分から創るという想像力が弱くなっているのではないだろうか?
あるいは、ネガティブや消極的な方向の想像力が強いという見方ができるのか・・・。
③その先の問題解決スキルがつく
ここからはフィクションに関する有用性になるが、フィクションには自分の現実では立ち会えない場面が登場する。
そしてすべて順調なだけの物語は存在しないから、登場人物が必ず困るようにできている。
普段では立ち会えない困る境遇を、登場人物の行動や感情とともに疑似体験することができて、解決する方法を登場人物から学んだり、どこか自分なりにシミュレーションしたりしている。
それが、似たような困った現実に晒された時に記憶の引き出しから引っ張り出す材料になる。
これはもちろん現実で自分の目の前にある困ったことではなくて、その先にも自分には訪れないかもしれない困ったことではあるかもしれないのだが。
フィクションを経験することによって、何となく自分の困ったことを解決したという気になって自信がついたりもする。
特にフィクションは創りものであるだけにドキュメンタリーよりも境遇の多様性が広くなるわけだ。
「自分がレイだったならば、カイロ・レンを助ける選択を果たしてしただろうか? 」
~映画スターウォーズを見て~
こんなことはその先の現実には起こらないだろうけれど。
④境界線を知る
人はフィクションをインプットした時に現実と照らし合わせて、ありえない、おかしい、などと現実と虚構の境界線を推しはかることができる。
フィクションを知らないと現実の輪郭がはっきりしないものなのだ。
そして、虚構を積極的にインプットする人はその境界線を探る過程の中で、虚構の中に現実の可能性を見出すようになり、幅広く拡がりをもって現実を捉えることができる。
無駄なものもあるだろうが、余裕というか遊びができる。
一方で現実だけを求める傾向の自分は、間違いがない最小限の現実を認識するに留まり、逆に他に隠れている現実を見つけられない。
今までにそんなことが現実だったのか?と驚愕した経験はないだろうか?
自分は、まさか高層ビルに旅客機が突っ込むとは思ってはいなかった。
あの時はおののいた。
<参考>
小説を読む意味/なぜ僕たちには物語(フィクション)が必要なのか
虚構は現実のはけ口となり、自分を優しく包む
更に虚構の有用性を考えてみる。
お笑いにおいて「イジる」という行為がある。
「イジる」行為には、イジられる芸人がオイシく(オモシロく)なるから愛があるのだ、という。
その一方で、この「イジる」が学校での「イジメ」につながるのではないか?という声もある。
「イジる」ことを見て残念ながら笑えてしまう、というのは否定できないことで、人がうまくできないこと、不器用なこと、普通ではない変なことは、すぐにおかしい、などとツッコミたくなる。
そしてそこへのツッコみを笑えるようにできている。
これは本能的なものなのだと思う。
うまくできない人と一緒にいると生命が危険に晒される、そして、変な奴を放置すると生命の危険に晒せてきたのだ。
だからツッコむし、バカにして笑い、是正を求める。
この笑いを抑えることは、本能を抑えることで、これと同じく、ポリティカルコレクトネス(人種、信条、性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す:ウィキペディアWikipediaより)の行き過ぎは本能に反するもの、本能を大いに抑制するものになりはしないか、と不安を感じたりもする。
イジメも笑いと同様にその本能のひとつの現れであって、笑いという虚構の場で起こっているのか、学校という現実の場で起こっているのか、の違いなだけなのではないのか?
あるいは、本気(マジ)という現実の場と冗談という虚構の場で起こっているという違い。
そんな思いがよぎった。
この本能がある以上、イジメたい、という欲求は程度の差こそあれ、なくなることがない。
生命の危険を避けるためにいざという時に必要な能力にも思える。
イジメたいという欲求は抑えずに、実際にイジメを行動に移さない、ということを共存させないとならないのではないだろうか?
この能力を廃れさせずに、イジメを失くすにはどうしたらいいのか?
その方法は、その欲求をお笑いや冗談という虚構の場だけで発揮、発散することなのではないだろうか?
虚構が受け皿になり、はけ口になる、というかはけ口にするべきなのではないかと思うのだ。
また別の話になるが、以前に仕事仲間との飲み会で、私が学祭で女装をさせられた経験を話したことがあった。
そうすると周りがふざけて、おっさんである私に当時のように化粧することになってしまった。
その悪ふざけに対抗するように、今度は私もふざけてテレビで人気のニューハーフタレントの口調をマネてAさんに吐いてみた。
「あんた、タカシ(仮名)に頭が悪い、って言われたくらいで、メソメソしてんじゃないわよ。」
ここでのタカシ(仮名)はその時の我々の上司であり、その上司からAさんが頭が悪い、と言われたことはその数分前にAさんから聞いた話だった。
その話をする時にAさんは少し落ち込んでいたようだった。
この直観的に出たニューハーフもどきの言葉は、女性の語尾になることを基本として、普段は苗字にさん付けしているAさんを「あんた」と呼び、上司のタカシさんも呼び捨てにするものだった。
自分から出たこの言葉に自分自身も驚いた。
自分も普段のおっさんのままならば、とてもここまでは踏み込めないのだが、ニューハーフはいとも簡単にそれをやってのける。
このニューハーフもどきの言葉にAさんは、苦笑いして喜んでくれた。
その後、このニューハーフは好評で私も、私も、と次々に暴言?を求められた。
しばらくしてまた飲む機会があったが、今度はイヤリングまで買ってきていて、また女装させられて言葉を求められた。
ニューハーフとはすごいものだと思った。
このことは、ニューハーフというキャラのすごさを確認する以外に何かを演じる、という虚構のすごさを感じるものでもあった。
演じることによって、架空の話として娯楽という範疇に入り、本気(マジ)の世界、現実から切り離すことができたのだと思う。
本気(マジ)の世界では、自分にこうしろ、といろいろ強要してくる。
これに対して虚構は嘘の世界だから、冗談として捉えることもできるし、無視してもいいから気楽なのだ。
虚構が嘘っぽければ嘘っぽいほど楽になる。
例えば現実の本気(マジ)の学校の講義内容は、こうあるべきと説教がましいから頑張らないと入ってこない。
これに対して、フィクションのマンガなんかも、主人公が勝手に判断して行動しているだけで、読み手にそれを強要してこないから、読み手が愉しみながら無意識に感じているのだ。
そのことが結果的に人生の学びになったりする。
そこには偏差値の加点にはならない学びがある。
余談だが、演劇という虚構は子供の情操教育になるとも言われる。
イジメ役とイジメられる役の両方を演じて互いの気持を知ったりできたりする。
これらのことはひとつの例にすぎないのだが、虚構が受け皿にもなり、優しさをまとって役に立つんだ、ということを示してくれていると思う。
虚構を十分に活用する
今一度スタート地点に戻って、虚構とはやはりそれによって自分が騙されるわけで、危険だから排除しないとならない。
これは変わることはない。
それでも別のシーンで虚構は、不可欠なものでもある。
そして、現実のストレス発散のために虚構が存在していることも一般的な感覚だ。
虚構が現実から逃避させてくれる。
虚構だけに依存してしまって、逃避したままになるのはまた問題なのだが、適度な逃避、気分転換の範囲で虚構を使うことは有用だろうと思う。
まさに話題のメタバース(コンピュータネットワークの中に構築された、3次元の仮想空間やそのサービス:ウィキペディアWikipediaより)にも言えるのだろう。
虚構と一言でもその意味の幅は非常に広い。
自分は、虚構を毛嫌いするだけではなく虚構も十分に活用しながら、現実と虚構をうまく渡り歩くことでより豊かによりうまく生きていけるんだと思った。
虚構に包まれて現実を知り、創造的にもなって、余裕も持てて、優しくもなれるのだろう。
〇清潔も必要だが不潔も必要。
→あまりにも周りをキレイにすることで免疫が暴走してアトピーなどのアレルギーが起こる。
〇毒は不要だが毒も必要。
→体に悪い放射能を適量浴びると逆に免疫力が発動して健康になる。(放射能泉ラジウム、ラドン)
〇マジ(真面目)は必要だが冗談(不真面目)も必要。
などなど、やはり何事も排除するという一方向ではバランスが悪いものだ。
現実と虚構の間にもそのようなバランス、まさに中庸があるのだ、と再確認した。
Photo by Suad Kamardeen on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
すこし前に棚を整理してたら、見知らぬイヤリングが出てきて、この苦い女装を思い出したのでした。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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