田中 新吾

「それは間違っている」と思った時、ストレートに言わない方がいい理由とその時の対処法について。

昨年の話だが私が書いた記事をSNSでシェアしたところそれについてあるコメントを頂戴した。

そのコメントというのが「それは間違っている」というものである。

コメントをくれたのはまったくの見ず知らずの男性だった。

そのシェアにはたくさんのいいねと肯定的な意見をもらっていた中で、その盛り上がりが見ず知らずの人のところまで届いたというところだろうか。

価値観は人それぞれであるし、各人で抱く意見というのは違って当然だと頭では理解している。

しかし、この時の私の感情をここで吐露してしまうと「間違っている」と言われて物凄く不快な気分に陥った。

それまで肯定的な意見を沢山いただいていたこともあるが、何よりも、見ず知らずのどこぞのおじさんかもよく分からない人にいきなり「それは間違っている」と真っ向から否定されたことが気に入らなかったのだ。

ちなみに「それは間違っている」の説明として書かれていたロジックも正直いってよく分からなかった。

こういうことはSNSというオープンな場では日常茶飯事のことかもしれない。

認識できていないだけで私が間違っていたのかもしれない。

しかし、よくもまあ関係性がまったくない相手に対して初球から「それは間違っている」などと言えるな、というのが正直な感想だった。

そして私は、その人に「それは間違っている」と言われたこと、その人のアカウント(アイコンとかも)のこと、を今でもまだハッキリと覚えている。

そういえばこの間お会いした方も昔上司に、「それは間違っている」ときつく言われたことを今もよく覚えていると言っていた。

思うに「それは間違っている」というように「間違い」を指摘された場合というのは、指摘された側の中に「私とは違う人」ということが深く刻み込まれ、言い方の度合いや状況にもよるだろうが場合によっては「一生忘れない」くらい相手の中に刻み込まれていくのだろう。

そして、精神的か物理的かは分からないが、間違いを指摘してきた人との間に大なり小なり垣根を作る。

そこから建設的に人間関係が構築されることはおそらくほとんどないだろう。

人間関係を終わらせたい場合はこれでいいかもしれない。

しかし、よい人間関係を構築していきたいと思う場合はこれでは困ってしまうのではないだろうか。

自分とは違うタイプに対しては「拒否反応」が出る

世の中にはどうしても自分の考えが合わない人や趣味が違う人がたくさんいる。

私に限らず人間なら誰しもそうだろう。

そして、人という生き物は「私とは違う」ことに対して極めて敏感に反応するように生まれながらにしてできている。

自分とは違うタイプに対して「拒否反応」が出るのだ。

しかしこれは、人間が部族社会で生きていた頃に脳の中に刻み込まれた性質であるからそう思ってしまうことは仕方がないことだと私は解釈している。

しかも、これは純粋に感情的なものであるから中身が正しいかどうかはほとんど気にされない。

拒否反応が出てしまうのはもう反射だ。

随分と昔の話になるが、私は相手のことを「お前呼びする人」と同じコミュニティにいたことがあった。

その当時これがどうしても受け入れることができなかった。

「どの口が言ってんの?」ということを思わざるを得ず、結局私はそういう人との間に垣根をつくり距離を取るようになった。

当時の自分にとっては必要な拒否反応だったと今あらためて思う。

複雑系について研究する物理学者のヤニア・バーヤムは、「よい垣根がよい隣人を作る」ことを、きわめて説得力のある形で証明した。

(太線は筆者)

あらためて言うまでもないが、この世界に自分とまったく同じ人というのは存在するハズもない。

自分とは違う人たちに囲まれて社会生活を営んでいる。

参考:「対話」は、なんとなく思ってきた通り、気軽に増やしたり減らしたりできるものではなかった。

そんな中、やってみて成功や失敗という経験をしたり、本を読んだりしながら知識を得ていくことで自分とは異なる他者への理解が生まれ少しづつ寛容になっていくのだろう。

その一方、ただでさえ違うタイプには拒否反応を示すようにできているところに「それは間違っている」という具合に、相手の拒否反応メーターの針を思いっきり振り切るようなことを加えたとすれば、相手からは嫌われてしまったり、離れられてしまうのは必然なのではないだろうか。

私に関しては少なくともそう思っている。

自分の本音はどの程度までオープンにすべきなのか?

少し話は変わるが「オープンな人」というのは分かりやすい。

これから何をしようとしているのか、何を感じたり考えているのか、今どんなことをやっていて腹の内では何を企んでいるのかまで、多くが手に取るように読めてしまうからである。

さらにありのままの自分を隠そうとしないオープンな人というのは隠し事もできない。

だからオープンな人とは親密になり、心地よく効率のいい付き合い方ができるのだろう。

人間関係構築系のセミナーでは「オープンな人付き合い」というテーマが選ばれることが多く、自分の「本音」をオープンにすることが世間ではもてはやされているようにも思う。

参考:本音を覆い隠す建前を取り払う

しかし、実際のところ本音というのはどの程度までオープンにすべきなのだろうか??

オープンな人が好まれるからと言って、本音はすべて曝け出した方がいいのだろうか??

現時点の私の考えを言えばこれについては「ノー」だ。

本音を言えるというのはとても良い。

しかし、とても良いと私が思うには大前提がある。

周囲に不快感を与えない「気遣い」があることだ。

例えば、チャールズ・ダーウィンの葬儀の時の話をご存知だろうか。

ダーウィンの葬儀はロンドンのウエストミンスター寺院で行われたと言われている。

その葬儀の時、チャールズの長男である「ウィリアム」は葬儀の時に最前列に座っていたそうだ。

だがウィリアムは、葬儀の最中、不意に自分の髪の薄い頭にスキマ風が当たるのを感じ、とっさにはめていた黒い手袋を両方外して毛のない頭の上に載せたという。

そして、世界中が注目する葬儀のあいだずっと手袋は頭の上に置かれたままだったという。

ウィリアムは間違いなく「オープンな人」だ。

ところが、手袋の件を思うと周囲への気遣いは欠けていたとしか私は思えない。

<参考文献>

SNS上で私に対して「それは間違っている」と言い残した冒頭の男性にしてもそうだ。

もし私が彼と同じ立場で「それは間違っている」という本音を持ったとしても、おそらくそれをSNS上で曝け出すようなことはおそらくしていない。

対処法としては「間違いは指摘しないで気づかせる」

では、もしも対峙する相手に拒否反応を示されることなく、間違いや課題に気づかせたいと思った場合はどうすればいいのだろうか?

私の経験則からすれば「間違いは直接指摘はせず、相手に気づかせる」に尽きる。

要するに、相手が自発的に間違いに気づいてもらえるようにガイドすることに努めるのだ。

ちなみにこの考え方は前職で教え込まれた「アクションラーニング」がベースとなっている。

参考:「問いの資本」は、「問いを運用する」ことで築かれていく、という話。

気づいてもらうために具体的にとっていくアクションは以下の通りである。

褒める

「子供か?」と思うかもしれないが大人もやはり褒めてもらいたいものだ。

クリエイターのみうらじゅんさんも「大人になるとみんなホメてもらいたいんだけど、みんながみんなそう思っているのでなかなか自分の順番が回ってこない。だから大人は寂しい。」と言っている。

それがお世辞でも褒められたら大人でも嬉しい。

見ず知らずの相手との距離を縮めたり相手に胸襟を開いてもらうためには、会話の中から相手を「褒める」ことができるポイントを探し、実際に褒めることで自分は敵ではないと示す必要は十分にある。

質問をする

人には質問をされると、その質問内容について考えてしまう性質があるため、何かを考えて欲しければ質問をすればいい。

もしかしたら自分が間違っている可能性もあるわけだから、それを判断する上でも相手から「やっていることを聞く」など、情報を出来るだけ多く引き出すという意味で「質問をする」は極めて大事なアクションだ。

こちらからする質問が的を得て入れば、その質問一つで気づかせることができることもあるかもしれない。

提示する

そして「質問をする」によって得られた相手の情報に基づいてこちらからも提示していく。

ここでも間違いや課題を指摘するのではなく提示するのだ。

「今までの話を踏まえるとこういうことでしょうか?」

「そういえば前にこんなことがありまして・・・・」

このような具合に仮説や類似のエピソードを持ち出しそれを相手に提示していくのだ。

これが相手にとっての思考の補助線となり、間違いや課題に気づくという流れがつくられるように根気強く努めるのだ。

以上がこれまでに意識してやってきたことで、理屈化・言語化してみるとこんな形になるのだがはっきり言っていざやるとなると非常に面倒くさい。

間違いなく心労する。

であるから、さっさと間違いや課題を指摘してしまいたくなるし、丁寧にガイドしていっても気付いてもらえないことだってもちろんある。

とても難しい作業だ。

しかし、相手に拒否反応を示されることなく間違いや課題に気付いてもらうためには、今のところこの対応が最善だと私は思っている。

だから大変なことは十分分かった上で個人的にはこれを取り組むのみだ。

「グッドバイブス ご機嫌な仕事」という本の中に下記のような文句が出てくる。

好ましくないと感じた相手の言動を罪ではなく、修正可能な間違いと捉える

これは本当に金言だと思っており、すぐに間違いを指摘してしまう人というのは好ましくない相手の言動に対して「罪」だと捉えてしまっているように私は思う。

本来は修正可能な間違いであるのにだ。

冒頭の私に「それは間違っている」と指摘してきた男性ももしかしたらこのタイプだったのかもしれない。

もしも、いきなり「それは間違っている」という絡み方ではなく、丁寧に絡んでいてくれていたらコミュニケーションのラリーの中から私も気づかされることがあったかもしれない。

人間なら誰しも間違えるし、人間はそもそもみんな違う。

そして人間は間違いや課題を指摘されると自然と拒否反応を示す。

こういうことをしっかり認識した上で人間関係に臨んだ方が、きっと人生が愉しい方向に行くのではないかと私は思っている。

Photo by Afif Kusuma on Unsplash

【著者プロフィール】

田中 新吾

自分のことを正しいと思いたい人間に、間違いや課題をストレートに加えることは、劇薬を加えるようなものだと思ってます。

中小企業、中小自治体、個人の「プロジェクトサクセス」を支援しています。人生のミッションは「プロジェクトという挑戦」を応援すること。座右の銘は「Life is Projects」。自称ネーミングマニア。

詳しいプロフィールはHTML名刺をご覧ください。

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