RYO SASAKI

「鈍感力」が必要と言われる現代だから、自分も鈍感力を学んでみよう!

タナカ シンゴ

前回の呼吸法のところでは、情報社会が人を交感神経優位な状態にしている、ということがわかったのだが、それに抗う方法として真っ先にしなければならないことは「情報遮断をすること」だと私は思った。

SNSを遮断して、TVを捨てて、人と会うことを減らす。

この情報の遮断は依存症に陥らないための唯一の方法として、ある本で紹介されていたのだが、あまりにも策がないように思えて、これには拍子抜けしてしまった。

他の方法はないものだろうか?

それで、思いついたのは「鈍感力」というワードだった。

情報がインプットされたとしても感じなければ、交換神経の優位状態が過剰にならないのではないだろうか?

「鈍感力」という言葉は10年前くらいだろうか、そういうタイトルの本も出版されて、よく使われる言葉になったように記憶している。

「鈍感」に関する本も多数出ていて、最近は、

<鈍感になる練習>

という本までもが出版されていた。

鈍感というものを練習するらしい。笑

敏感気質の人をHSP(Highly Sensitive Person)といい、最近では5人に1人がそれに当てはまるらしい。

この世の中で生きていくために、特にこのような敏感な人は鈍感にならないと人生が苦しくなるようだ。

自分も鈍感力を学んで、何とかストレスの減少を目指してみたい。

鈍感力とは

<天才はみんな「鈍感」さん ありのままの私を大切にした偉人の話>

こちらの本では、天才たちが実践した以下のような例が紹介されている。

・つまづきそうなところで捉え方を柔軟に切り替えた。

・風変りなことをしても、特に気にせず好奇心のままに行動し続けた。

・周りの意見に耳を傾けつつも、最終的には自分は違うのだ、と割り切って決断した。

この本の最後は、これらの天才性の中に意図的に「鈍感」になってしまう力が隠れているのではないだろうか、として締められている。

何かを成し遂げるために、周りを気にしない力(これを力と表現してよいものかわからないのだが)が必要だということのようなのだが、周りを気にしていられないほど、やりたいことが天才たちにあってそれに夢中になった結果だとも見える。

好きなことをやり続ける勇気が大切ということに尽きるのではないかと感じる。

<繊細な人  鈍感な人 無神経なひと言に振り回されない40の考え方>

こちらの本では、敏感な人のために書かれていて、鈍感な人ー別の言い方をすると無神経な人ーに対して、イライラしないようにするための術が紹介されている。

例えば、悩み事を相談している途中で、

鈍感な相手が「要するに〇〇ってことだよね」

とまとめられたりして、ガクッとしてしまうようなケース。

このようなケースでは、「勝手にまとめないで」と心の中で思いつつ、無視して相談を続ける、という対応策を提示している。

鈍感な人の方をどうにかすることに無理があるから、繊細な人の方がずうずうしく鈍感にならなければならない、ということのようだ。

繊細な人が、むしろダメな鈍感に寄せていかないといけない、というのは皮肉なことだが、人は変わらないから自分を変えるしかない。

<最先端研究で導きだされた「考えすぎない」人の考え方>

こちらの本では、考えても解決しないことは考えない、とか、物事をおおざっぱに捉えて判断する、など不要な思考を減らす方法が紹介されている。

鈍感力という言葉が出ているわけではないのだが、気になることであっても思考から除外するという意味では、鈍感力に共通するのではないか?そんな風に感じる。

私は合理性が好きな人間だったので、この本にあるように不要な思考を除外すること、無視することで前を向いてきたという感覚がある。

だから、本の内容には共感するところが多い。

最近よく聞くようになった言葉に、

「鈍感な人がうらやましい」

「天然の人(≒鈍感な人)には勝てない」

などというものがある。

私も憎たらしいくらいに鈍感な人間を見ては、羨ましいと思ったことがある。

鈍感が素晴らしいから鈍感になるべきなのか?と言うとそうではないことを、「鈍感」と「鈍感力」の違いによって説明しているものもある。

「あえて鈍感なふり」でストレス軽減!鈍感力を発揮するためのコツ

こちらの記事によると、鈍感力は鈍感でない人が、鈍感なフリをして戦略的に進める力であって、鈍感であることとは異なる、という。

鈍感な人は無意識に感じていないだけであって、それには迷惑な面が多々あるから鈍感になればいいというものではない。

この戦略的に進める力は、感じるものを感じないフリをする、無視する、スルーするというものであって、誰にとっても大変なことだろう、と自分を振り返ってみても思う。

鈍感力をつける

丁度鈍感力を学び始めたタイミングに、ある方から私の性格について指摘をいただいた。

それは、

「佐々木さんは、周りにすごく苦労していたり、困っていたりする人がいても、その人の痛みがわからない、というか、その痛みに興味がないでしょ!?」

というもの。

私のいくつかの言動を観察していてそのように感じられたようだ。

この年になるとそんな自分の足りないところを言ってもらえる人がいなくなるので非常に有難いことなのだが、悪いところを指摘されることに対する免疫が切れかかっているからなのか、動揺は隠せなかった。

私は非情な人間なのだろうか?

何とか平静を取り繕って、思い当たるところを考えてみることにした。

他人の苦労に共感する時に、人は過去に自分の身の上に起こった苦労ーそれはまったく別の苦労でもいいのだがーをした時の苦痛を思い出してそのような苦痛が相手にあるのだろうと想像して、その自分の苦痛に思いを寄せて疑似的に共感するものであると思う。

だから、その苦労の経験がないと、相手の苦痛に寄り添うことができない。

人生は本や映画を使って疑似体験して、実体験を補間していくものではあるのだろうが、だとしても実体験とは差が出てしまうのだろう。

まずひとつに、私の実体験の苦労の足りなさが指摘につながったのではないだろうか?

私は自分が苦労してこなかったとは言わないが、自分は苦労が多い、と言うことができない。

これは、素晴らしいことかもしれないが、この点からすると残念なことでもある。

次に、私は合理的な精神に満ち溢れている。(笑)

合理的な判断が癖付いているというのか。

そして、人の苦しみについて他人が同じようにわかるはずがない、というところに偉そうにも行きついたとも思っていたりする。

他人のことがわかったようになることは偽善である、とさえ思っているところがある。

助けを求められたらやれることはやりたいが、最終的には本人にしか解決できないものだと思うようになった。

私は、これらのような答えをアッと言う間に出して前に進んでいる。

このようなものを背景としてにじみ出る私の言動が、指摘につながったのではないだろうか?

いや、こう考えることは言い訳でしかなくて本当に自分勝手で非情なのかもしれない。

更に思い出したことがある。

私は子供の頃から、やることなすことが幼くて、自分のことで精一杯。

秋田弁で「チャッパたげるな」という言葉がある。

これは「(自分のこともしっかりできないのに)人にお節介を焼くんじゃない」といったニュアンスの言葉だ。

これが大学生に至るまでに何度も私が言われてきているので、私にふさわしい言葉として沁みついていたりもする。

どこか、人の助けをできるような器ではないと思ってここまできている。

人を助けられる資質の人はもっと自然にそうした縁に恵まれてきただろうと思う。

このことによって苦労している人とどこか距離をとるようになってしまったのではないだろうか?

まあ、これも言い訳にすぎないかもしれない。

さて、こんなこともあって、ネットにある鈍感力のテストというものをやってみることにした。

【鈍感力診断】いろんなことスルーできてる?

鈍感力80%

あなたの鈍感力はかなり高め。

周囲の空気を気にせず、我が道を進めるタイプの人間です。

鈍感力が高いと特に自己主張の控えめな日本では、辛い思いをすることや無意識に相手を傷つけてしまうこともあるでしょう。

どこかで「自分が気にならないことは相手も気にならない」と思っているのかもしれません。

鈍感力はこんなに高かったのか・・・。

この結果から昔のことをいろいろと思い出した。

若い頃は周りに迎合することが多かったから(あくまでも自己申告にすぎないから本当のことかは定かでないが)、今その迎合をやめるように変化してそれがこの結果に現れたことは、目論見通りで誇らしく感じる面もある。

私はある人に、

「自分はもっとあなたみたいにおおらかにした方がいいみたいだね」

あるいは、

「これがいい、と結論付けたらすぐに進めないと気が済まない人だよね」

などと言われたことを思い出した。

上は良い意味で、下は悪い意味で言われたものだ。

私は、ちょっとしたことでくよくよする自分の気質をなんとかできないか?と思っていた時期も長くて、昔はそれを克服しようと努力してきた。

くよくよするような小さいことを無視するべきことして、無視するように訓練してきた。

細かいことを排除することで効率的になることもわかったから、気にしないことをどんどん増やしていったように思う。

これができてきた、ということは学んだ知恵によってそのように成長してきたということなのではなくて、もともとそういう資質だったのだと理解せざるを得ないところもある。

このような私の資質は、まさに前章で上げた例のように相談の途中で、

「要するに〇〇ってことだよね」

とさえぎるようなものだったのだろう。

当たり前に結論を出して、その問題は解決済みとケロッとして、相談相手に対して「何でそんなに悩んでいるの?」と感じていたようなことがあったかもしれない。

このような私に対して、相談相手は甲斐がなく、ノー天気でガサツでそれが嫌味にすら感じることも多かっただろうと思う。

私には答えを求めて自分の中に答えを見つけると主張せずにいられないところがある。

私には疑問は何がなんでも解決しないと気がすまないところもある。

結論を急ぐ私は、少ない情報からあるパターンにはめて結論付けたいところがある。

これらのことを我慢することができない。

この世の中は、数学の問題のように答えがスパっと出ないものばかりだから、答えが出せたとしてもそれは、単純で表面的な答えであるだろうし、私にとってだけの答えであるとしか言えない。

そんな答えを瞬時に出されては、相手は納得しないだろう。

単純拙速な決断は、横暴である。

これが私の合理性につきまとう問題なのだろうと思う。

長い仕事のプレッシャーからか、何事に対しても急いで拙速さを発動させる癖がついてしまってもいる。

そこから時間を経て、その合理性とは本当に合理的なものなのか?と自分の合理性そのものに疑問を持つようにもなった。

私の合理性が合理的でないならば、私は何のために急いでいるのだろうか?

私は私の合理的判断に興味があり、そこに合致しない相手の思いには鈍感である、と言わざるを得ないのだろう。

さて、この話のキッカケは、できるだけ鈍感力をつけてストレスを減らしたいと思ったことだったのだが、どうも私にとってそれは必要ないという結論になってしまったようだ。

私はそもそもが鈍感だから鈍感力はこれ以上いらない、むしろ少し敏感になった方がいいかもしれない。

ここまで考えないと自分が鈍感であることに気づかないのだから、これが私が鈍感たるゆえんである。

何とも残念だ。汗。

やっぱり弱みは知るだけでいい

今回は、鈍感力を学ぶ中で思いがけずに私の弱みのひとつを意識することになってしまった。

良かれと思って構築してきた?私の細かな不要物を除外して判断を早めていく合理性。

自分が良かれと思ってきたことに、良い面ばかりがあるわけではない。

さて、この弱みに対してどうしていけばいいのだろうか?

まず、苦労が足りないということに対しては、手の打ちようがない。

これから生きていく中で苦労はつきものではあるだろうが、無理にたくさんの苦労をすることはできない。

そもそも合理性を追求する人間が苦労を好んで選択しないのだ。

だから、他の人の苦労に寄り添うことは、とても間に合わない。

次に、合理性に対してはどうだろうか?

急には変えられないし、求めてきた自分の合理性の旗を、どこか降ろしたくないという思いがある。

だんだん人生が短くなるとなおさらである。

とすると、苦労経験の少なさと合理性という弱みを克服することはできない、と諦めるしかない。

いや、克服しないと自分が判断している。

ならばできることと言えば、弱みを知っておく、ということだけである。

以前もこう言ったが、やっぱりこれしかない。

知っておくことでほんの少しかもしれないが、迷惑がかからないように周りに配慮ができる。

そして、その弱みからどうしても周りに迷惑をかけることがあるのだろう。

その時は周りに素直に謝罪する。

これしかない。

こうして周りとの折り合いをつけている風にして、自分を生きていくしかない。

人と会うと人との違いを感じることがある。

そこの中に羨ましく思う要素がある。

そう思う自分を羨ましく思うなんてナンセンスだ、人と比べるものではない、と学んだ理性で否定する。

理性で何とかコントロールはするものの、思いが一瞬でも浮かぶことを止めることができない。

だから、理性で理解したことは、本能へのカウンターとして後から働くにすぎない。

理性で理解したことが習慣になると本能を抑えつけて人は変れるという人もいるが私はどうも限界があるように感じている。

だからそんな理性で理解したことだけを文章に書くなんてことは、なんて中途半端なことなのだろうか?とも思うようにもなってきた。

そんなことを考えながら今まさにこれを書いている。

どんなに羨ましく思う衝動が湧き上がっても、自分にはできないことがあり、自分ではなれないことがあるのは認めなければならないことだ。

人には何かしらの弱みがある。

そして、今回の弱みに対する私の見立てが的を射ているのかもわからない。

そんな自分であっても、いや、そんな自分だからこそ、自分が引き受けなければならない。

引き受けるために私は逃げずに、自分という存在のありのままを認めて、苦労知らずの拙速な自分という存在と自分が対話しながら向き合っていくしかないのだ。

Photo by Surface on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

書籍『天才はみんな「鈍感」さん』の中では、アインシュタインの言葉が紹介されてました。

~常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことでしかない~

周りのことを気にすることに意味がないと確信している言葉ですね。

なんとシャープな言葉なのでしょうか。

やはり天才は違います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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