RYO SASAKI

「人に興味がある」と言われた私なのだが、それは本当なのだろうか?

タナカ シンゴ

私のいろいろなことを学びたい気持ちは未だに健在である。

学びにはいらない知識がついて気を揉むという面もあるとは思うが、それでもそれを上回って学びは人を幸せにする、あるいは、楽にする、という風に私はなぜだか思っている。

なぜそう思うのかはっきりとはわからないのだが、私はどうもそういう人のようだ。

私が学びたい領域は決して広くはないのだが、その中にまさに学びに関連する「教育」がある。

これまでに、教育に関する本の感想をいくつか書いてみたのだが、正直に言えばこれらのことは未来の子供たちのために、というよりは、むしろ自分のこれからのために使えないか?という思いが大きい。

それに対して、今更まだそんなことを言うのか?ともう一人の自分が言うのだが、私はどうもそういう人のようなのだ。

その理由を強いて上げれば、自分自身の体感がないと子供に何を言っても上滑りすると感じるからなのかもしれない。

そんな好奇心から、今回はあるようちえんの冊子に触れることになった。

森のようちえんピッコロ

園舎を持たずに自然の中で育てる「森のようちえん」は、全国にいくつかできている。

森のようちえんには一様に「園児の自主性に任せる」という方針があるようなのだが、山梨県にあるピッコロさんは、「園児の自主性に任せる」という意味では、全国でトップクラスのようちえんではないか?という噂を聞いた。

http://mori-piccolo.jp/

このピッコロの冊子に載っている事例をひとつ紹介してみる。

森のようちえんでは年長さんも年少さんも一緒に活動している。

例えば山で遊んで帰ってきた時に、点呼をとるのは年長さんの役割で、そのために園児たちに一列に並んでもらう。

ある日、年少さんのAくんが年長さんBくんの呼びかけに従わずに列に並ばなかった。

それを見て、年長さんBくんがたまらず手を出してAくんを転ばせた。

※内容を簡略化してまとめております。

さて、ザッとこのようなありそうな出来事において、何をどのように教育するのだろうか?

「手を出した」ことは整列させるためだったのか?転ばせようとしたのか?

引率の先生はBくんに「わざとやったの?」と聞いたところ、Bくんは「わざとやってない」と言うが、周りの園児たちは「わざとやった」と言う。

引率の先生は後日談で、Bくんの「わざとやっていない」と言う言葉を信じて、その場を収めても良かったのだが、そうはしなかった、という。

このやりとりの背景に実にいろいろなもの隠れている。

まず、ピッコロの保育方針の「自主性を育む」というものの大前提に、

「わざとはいけないよ」

「わざとじゃなかったから良かったね」

というような大人の価値を押し付けない、というものがある。

「こうでしょう」

「こうするように」

という正解?らしき親の言葉で育てられた子供は、その後も親の顔色を見て生きる人間になってしまうという。

更には、Bくんの「わざとじゃない」とはどういう意味なのかを掘り下げている。

倒そうと思ったわけではなく、整列させようと思ったのだ、ということを意味するのだろうか?

ではみんなにわざと、だと映ったのはなぜだろうか?

引率者は一瞬にしてこれらのことを感じて、Bくんに問いかけて考えさせるのだ。

「みんながわざとやったと言ってるけどどうかなあ?」

「Aくんが転んじゃったけどどう思う?」

このように手間をかける背景には、こんな思いがある。

自分で気づく(気遣いができる)人になって欲しい

自分で考える人になって欲しい

自分で言える人になって欲しい

周りの言いなりにならないような人になって欲しい

引率者は、予定時間通りにその場を終わらせて次に進みたい、という思いとの葛藤を常に抱えている。

ピッコロの「信じて待つ保育」の前提には、子供は元々良いこと、悪いことを感じられる感性を持っているし、自分がいい人間に育ちたいと思う感性も持っている、ということがある。

その感性が滲み出るのを時間をかけてじっと待つ。

大人の一言で終わらせない。

自分で気づく、考える、言える、言いなりにならない、といったチャンスを奪わない

自分で気づいて、自分で考えて、自分で言えることが、人間の根っ子の部分であってここをまずは強く育てている。

子供は元々感性を持ち合わせているのだから、正確にいうと、

「気づくチャンスを奪わない」ではなくて、「自分で気づいたこと(気遣う気持を含む)をつぶさない、あるいは、その気持ちを自分が無視するように育てない。」という言葉になるのだと思う。

サポートする側には、瞬時の判断と粘り強さが必要になる。

大人は弱いものを力でねじ伏せよう、であったり、大人の力で終わらせてしまおう、として合理的に進めようとするものだから、子供に対してそれらを抑える忍耐が必要なのだと感じるのだった。

この教育から大人が学ぶべきは?

とにかく大変な教育方法だ。

これだけがよい教育である、とした時に親御さんは抵抗があるんだろうが、子供が自分でできるチャンスが少しでも増えたら、強くなるんだろうと思う。

私の子供の頃を思い出すと、教えに従順な親の顔を見る子供だったと思う。

その不足の気持=反動が、学習には覚えることと考えることがあって考えることが大切だ、という私の過去の主張に現れたのだろうと思う。

そしてこんなことも思い出す。

私は法律というものに抵抗があって、強制ギブスのように捉えていた時期があった。

法律は隠れて破ってもいいものなのだとも思ったりした。

そこから、自分の感覚と法律が近づくというか、法律が腹に落ちてくるまで時間がかかった、のかもしれない。

これが、外にある法律という正解を押し付けられて自分では何も考えなくなるという弊害だったかもしれない。

まあ、過去のことはおいておいて、このことから今後の大人の参考になるとすればどんなことなのだろうか?

大人になっても自分の感性を押し込めないでしっかり感じよう、と言ってもピンと来ない。

では、「あなたが外から聞いて信じていることは、本当なのか?疑ってみよう!」などと言って見ても気が悪い。

これらはここまでにして、もうひとつ感じたこと。

それは、物事をどのように進めるべきかについては、その背景にある思いとその前提によって決まる、ということ。

今回の教育の背景には、自主的な人になって欲しいという思いがある。

そして、子供は親から言われたことを信じ込むようにできている面があって、そうすると考えなくなるという人間の特徴が前提にある。

ここから教育方法が構築されているわけだ。

ちなみにこの背景の思いや前提が違えば全く異なる教育方針になることは当然である。

このことを大人のコミュニケーションにあてはめてみる。

私が出会った人への思いとは何か?

・その人の価値観を知りたい。

・その人の経験を知りたい。

・(相手には)愉しんでもらいたい、何らかの発散になって欲しい。

※ここに自分の話を聞いて欲しい、という思いが入るとコミュニケーションは別物になる。

そのためにできるだけ話してもらう。

そのために質問し、共感する。

この質問・共感もテクニックとしてだけに見えてしまうかもしれないが、その人に興味を持てば質問は自然に出てくるし、偏見なくその人の立場を想像すれば大体のことは心から共感できるものだ。

そして、この価値観や経験を知りたいということは年齢を問わない。

若い人に対しても同様であるとこの前思った。

この思いには、上記のような人が持っている共通の前提がある。

・人は興味を持って聞けば答えてくれる。

・人は共感されることで話がはずむ。

・人は同様の経験ができないし、その経験からの感じ方も千差万別である。

このように書いてみると、コミュニケーションのノウハウ本にあるような内容になってしまったのだが、これも本にあるものをそのまま理解することと、自分の言葉で語ることは異なることだ。

今回の教育方法から、何を背景に思っているかで行動が変わり、行動が決まる、ということを再確認できた。

そして、人間とは何者であるのか?がやはりすべての前提にあることが確認できたのだった。

人に興味があるということ

「そこまで人に興味あることが私にとっては信じられないです。」

同じ人から、私は何度もこの言葉を言われたことがある。

初めて聞いた時からずっとピンと来てはいない。

私は、どちらかというと自分のことで精一杯で人に興味をもち、人を手助けするようなことをそんなにする人間ではない。

どちらかというと人への興味は二の次になっているはずなのだ。

それでも確かになんだか人に興味はあるように思う。

これはどういうことなのか?

最近になって、今度はこんな風に言われた。

「人それぞれに興味があるのではなくて、人というもののパターンに興味があるんですよ。」

私は、こう言われると、血も涙もない人だと言われたようで、

「ひとりひとりに興味がないわけではないんですよ〰️。」

と慌てて訂正したのだが・・・。

確かにそのようなところがあるのだと納得してしまった。

このことは前章でいう「人間とは何者であるのか?」という物事の前提につながる。

私は個人個人の細部までは、把握するほどの好奇心もそれを請け負うキャパも追いつかないように思うのだが、人間の持つ共通点、傾向といったようなところに興味がある。

そして全体の共通点に続いては、特定の人のタイプ別共通点というところへの興味。

これは、人とうまくやっていくためであり、現実に沿って物事をうまく進めるためなのだった。

この根拠が見えると自分は何とも健気で、微笑ましいとも取れるが、ドライであるともとれる。

とにかく人というもののおおよそのパターンを把握したい。

もちろんパターンになんかにできるほど単純だとは思ってないし、人をパターンにあてはめるなんてことは自分が聞いても気分が悪くなるから、言いたくはない言葉なのではあるのだが。

そういう意味で私は人に興味がある、というよりはどうやら人間というものに興味があると言った方が合っているようだ。

そしてここ最近の興味は、すべて自分自身の感覚や思考を観察対象とした人間理解に根を持っているように思えてくる。

そう考えるとスッキリするように感じられた。

なぜだか未だに学びたい私がこのあたりから来ている、とつながるようでもある。

さて、それでは私のこの人を学ぶ行為は、うまくいっているのかというと・・・。

対面ではなかなかうまく行かない。笑。

踏み込みすぎて引かれたり、

話が常識の域を脱せずに退屈がられたり、

理屈っぽくて煙たがられたり・・・

どうやら忍耐が足りなさそうだ。

それによって自分という特徴、言い方を変えると自分のえぐみが出てしまうんだろう。

それでも懲りずに、敢えて危険領域に飛び込んで、人を知ろうとする。

人間を学ぶ試みは枯れるまで続けていくんだろうと思う。

昨今、人それぞれの大切にしている価値観が、随分分かれてきているように思うので、それを早い段階で捉えられるようでありたいと最近は特に思っている。

ようちえんの話は、今の自分を発見するという、何とも意外なところに着地したのだった。

UnsplashLeo Rivasが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

正解を知ってそれをやることは物事が早く進むから合理的であるとどうしても思えてしまいます。

それに対して、我慢してじっくり進める、を選択する勇気が、試されているのではないか?

そんな風にも思いました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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