「自分の影の部分」を受け止めることで人生が変わるかもしれない。
私はどうも、いつからかプロ歌手の歌う歌を上手いとも思わずに聴くようになっていたようだ。
モノマネ番組にご本人さん登場というコーナーがある。
この番組は、モノマネの人が歌の1番を歌った後、続いてご本人がサプライズで登場して2番を続けて歌うというものなのだが、その歌のギャップを感じて、プロ歌手であるご本人はこんなにもうまいのかあ、と気づいたのだ。
いつもそこにあるものはあって当たり前になって印象が弱まり、歌下手がいるから歌上手を認識できるんだ、と思い知った。
歌でいうと、カラオケアプリ(スマホに向かって歌うと採点してくれて録音もしてくれる)というものを使ってみたのだが、自分の歌の下手さに驚いた。
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もう少し歌えていると思っていたから、かなり残念だった。
知らなければ良かった、と後悔したのだが知ってしまったからには今更それを忘れ去るわけにもいかない。
これではカラオケ屋における少しやれている感を漂わす自分の態度を改めねばなるまい。
こんな話もある。
ゴルフにはまっていた時期に自分はかなり上達した、と思った瞬間が何回もあったのだが、その度に大叩きして現実を思い知らされることもあった。
このような私の勘違いは今に始まったわけではない。
これまでもたくさん経験してきているものだが、思い出してみると自分が優位な方向の勘違いばかりをしていることに気づいた。
プロ歌手は上手いと感じず、自分の方は歌えていると認識する。
このような勘違いはどうして起こるのだろうか?
このような間違った認識によって、事実が隠されるということについて考えてみることにした。
ユングのシャドー
精神学者のカール・グスタフ・ユングの考えの中に、人には影(シャドー)の部分が必ず存在する、というものがある。
影というものとはどういうものかというと、
・自分が否定したい部分
・自分がよく生きられていない部分
・自分が隠しておきたい部分
というようなことだという。
そして、光は人の意識の部分にあって、影は人の無意識の部分にある、と対応させている。
光があるから影があり、影があるから光があるのであって、どちらかだけが存在することはできない。
ゲーテの言葉に「光が多いところでは、影も強くなる」というものもある。
先ほどの歌下手がいるから歌上手を認識できる、というのもこれと同じ類のことだと思う。
正と悪の両方が人の中に存在している。
人は悪の部分をなくそうとするのだが、実際には悪は消えてなくならないで人の中に潜んでいるのもなのである。
ユングは、このような影の存在をないものにしようとすることに無理があるのであって、影をしっかり認識して光と影を統合することで精神が健全になると言っている。
これまでの引っかかりが解けた
道徳教育は、自分の中にある悪をなくさないとならない、と教わって来たように思う。
少なくとも私はそう捉えていた。
悪の部分を持っている子供が、大人に向かって行く途中に学んで悪の部分をなくしていくのだと。
ところが真面目に捉えて試みようとしてもいつまで経ってもできないことに気づかされた。
悪とは何なのかがそもそも難しいのだが、自分だけが得になることだけを考えたり、相手を憎らしいと思ったり、嫌がらせしたいと思ったり、人を否定したりすることを悪と捉えた時に、そのような思いが自分の頭に一瞬たりとも浮かばないようにはできないのだ。
精神論による矯正ではなくて、もっとわかりやすくて実行可能な教えはないものだろうか?とずーっと心にシコリがあったから、ユングのその悪を認めていい、という教えは何とも有難い。
よくよく考えると、憎らしいと思うような悪の気持ちは、自分が生き残るために必要な感情である場合もあって、自我をもつ自分が生きぬくために必要な素養のひとつでもあるのだよ。
ユングに加勢されたようで俄然元気が出る。
周りから悪をなくせと言われるから、悪い思いが浮かぶことから根こそぎなくさないといけない、という思いに囚われてしまい、それができないからそれにずーっと苛まれてしまう。
私は、できもしないことをやりなさい、やりなさいと矯正されてきたのだ。
そして、自分が苛まれるのが嫌だから、無意識の中に悪を閉じ込めてしまうことになる。
しかし、この防御策ーなくせないものをなくしたことにして閉じ込めてしまうことーによって、体調が悪が悪くなるし、精神障害を起こすような例もある。
湧き上がる思い、感情を矯正することは非常に危険なことなのだと思う。
では、この湧き上がる思いをそのままにする、ということと社会との折り合いをどう付けるのか?
思い浮かんだ方法は、思った後の行動をコントロールするということだ。
思いと行動を別々に捉えて、まずは思うことは思うことしてむしろ尊重する。
行動を制限すれば、周りに迷惑がかかることも、周りから批判されることもない。
行動も多少あっても鼻につくくらいにしておけばギリギリセーフなはずだ。
※TPOや人によっては保証の限りではないのであしからず。
とにかく、思いまで干渉されるもんか!と私は声を上げるのだ。
このような悪とのつきあい方は感覚的にみんなにあるものだと思うのだが、私の場合は勘違いがよく起こるので、言葉になると明確になって非常にスッキリする。
このユングの考えからのちょっとしたことが、私の生きるヒントになった。
ありのままを受け入れると緊張が減る
影の部分に注目してみると、冒頭の自分の歌がそこそこいけているというように良い方に認識しておく、ということもまた、自分が隠しておきたい心理の現れではないかと思えてくる。
いけていない自分を知ることで、ショックを受ける弱い自分を無意識に回避しているのではないだろうか?
これは自分だけの傾向にすぎないかもしれない。
しかしこれは一種のセーフティーネットでもあって、自分を守りながら生きるための機能なのだと思う。
一方ではあれもできていない、これもできない、と過剰に自分を卑下する人もいる。
これは日本人に多いらしいのだが、セーフティーネットの大切さがまたよくわかる。
人は物事を前向きに捉えるから生きていけるのだ。
ありのままに見るということは、弱い自分を受け入れる、その時の苦痛を受け入れる勇気、強さが必要になる。
私のように勇気のない人は、セーフティーネットをしっかりと設けてきた。
私の中には自分の悪い部分、醜い部分が出たら周りに非難される、ダメ人間だとレッテルを張られるといった恐怖が植え付けられている。
だから、頑なに隠そうとしている。
このように見ると必要に思えるセーフティーネットなのだが、存在するものを隠そうとする行為にはやはり限界があるようで、影を認められずにセーフティーネットを設置している人というのは、その人の姿勢にも緊張や硬直が見受けられるのだという。
どこか気を張っているのだろう。
この緊張や硬直は、交感神経優位になり呼吸が浅く不健康にもなる。
以前に考えが硬直している人は股関節が硬い、と聞いたことがあったが、頑なさは心から身体にも影響を及ぼすということがわかる。
セーフティーネットの行き過ぎがまた不調につながる。
精神疾患の治療では、隠そうとして無意識に潜りこんでしまっている自分の悪い部分、隠して起きたい部分を認識することを行っている。
影を認識することは辛くて体力がいることなので、患者の体力を考慮する必要があり、言葉で言うほど簡単にいかないものらしいのだが・・・。
トレーニングで強くなる
ここ最近の私の興味には、『自由』というものがあった。
今回の「自分の中に悪があっていい」というユングの考えも私の固定観念を外してくれて自由に導いてくれるものだ。
ところが、自由には危険な面がある。
自由になれば、楽な方に流れようとしてしまうということ。
以下は整体の先生から聞いた話である。
江戸以前の武士はいついかなる時も敵から身を守る体制をとることが必要だったわけで、そうすると身体を合理的に動かす、正座から骨盤を立てたままスーッと立ち、いつでも一歩踏み出せる姿勢をとっていた。
この姿勢がいわゆる良い姿勢なのだが、襲われる可能性がきわめて低くなった現代では、そしてまた、姿勢をとやかく言われなくなった現代では、どこまででも楽な姿勢を選択する自由があるわけだ。
江戸時代の緊張を失って自由の方に流れた結果の姿勢によって、身体の不調につながっているというものだ。
楽になると本来の何かの力が弱まると言える。
私はその安直さから、自由と楽を直結するというまた誤解をしてしまったことに気づいてしまった。
セーフティーネットの話に照らし合わせると、痛みを伴わないために、自分に不利なこと、都合の悪いこと、いわゆる影を隠して生きることは、楽な方に流れているとも言える。
そのことは、痛みを受け止める力、あるいは、不利なことでも痛まないようになる力を弱めることになる。
セーフティーネットの中身が増えることは、身体の緊張と硬直が増大していくし、過保護になり心も弱まる。
負荷のかけずぎも悪いが、かけなさすぎも悪い。
運動しないと骨密度が減って筋力が弱まるのと同じことだ。
こう考えてくると私は弱いから、何でもかんでも赤裸々にされることは受け止めきれないだろうけれど、自分を過保護にしてはならないのだと思う。
人は人を見て踏み込んでも受け入れてくれる人とそうでない人を判別しているように思う。
踏み込んでも受け入れてくれるように感じる人とは、自分の影を受け入れている人なのではないだろうか?
人は、踏み込んでも受け入れてくれるかどうかを自分の影を認識できているか?や緊張と硬直の有無などによって読み取っているのだろうと思う。
どうすればその域にまでにいけるのかわからないが、私は踏み込んでも受け入れられると感じてもらえるように、すこーしずつ、すこーしずつ、セーフティーネットを開いて弱みに向き合って心を鍛えていきたいと思う。
影は生きた人間の味である
『影をなくした男』という寓話がある。
この話を一言でまとめると、この主人公は影をお金で売ってしまってお金に困ることはなくなったのだが、影がないことで社会からひどい目にあう。
そして、最後には影の大切さを知るに至るというものである。
人間にとって影が大切であることを暗示してくれている。
影は隠しておきたいものではあると同時に、『生きた人間の味』であるともいう。
光だけに包まれようとしている人とはどうも距離が縮まらない。
感情が見えない人にも、どうも近づけない。
影を十分に経験した人は光を存分に味わえる。
(影が濃いと光が強い)
苦労が大きいと喜びも大きい。
例えばこのようなことが、『生きた人間の味』という意味なのではないだろうか?
確かにそうだ!人が人に親近感が湧く時というのは、その人の影が垣間見れた瞬間なのだ。
そして、意気揚々とする人の影の話は面白くて笑える。
こんな言葉もある。
「人間は自分自身と折り合える程度にしか他人とも折り合えない。」
~フランスの詩人 ポール・ヴァレリー~
自分の影と折り合えた分だけ、やっと人と折り合えるのだ、ということにつながり、私にとって影の認識の大切さが沁みる言葉になった。
自分の影も認められない者に他人の影を認めるなんてことはできない。
自分には影がなくて相手にだけ影があるならば、相手に対して光だけの自分がマウントをとる関係性になってしまうしかないのだろう。
なんとも、いくつになっても世の中にはわからないことが多い。
そして自分にはまた勘違いが多い。
それでも今回の、
・思いと行動を別々に分けること。
・自由と楽だけを紐づけないこと。
・影を隠さずに受け入れること。
という気づき、それはほんのちょっとした視点の違いなのだが、それによって見える世界が大きく変わるように感じる。
こんな発見はこれからもつきないだろう。
人生は面白い、人生は飽きない。
<参考文献>
Photo by Tom Barrett on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
私自身、ずーっと光を追い続けてました。
やっとここに来て自分の影について意識して書きたいと思うようになりました。
まだまだセーフティーネット完備ではありますが。笑。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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