田中 新吾

「子供の頃から沢山読書をしている人」の人間としてのスケールは、大きく違うという話。

タナカ シンゴ

これは多くの人にとって「そんなの知っているよ」と言われてしまうことかもしれないが「子供の頃から沢山読書をしている人」の人間としてのスケールは、大きく違う、という話である。

この話をしようとした時、私が真っ先に思い浮かべるのは女優の芦田愛菜さんだ。

例えば、芦田さんは、映画「岬のマヨイガ」の完成披露試写会で下のようなコメントを残している。

悩んだ時は、まずは自分の中で分からないなりにも考えて、一番自分が納得して行動できる答えを探して、行動を起こしたあとは結果は決まっているのだから、あとはなるようになるしかないと思うようにしている

うまくいかなくても自分を必要以上に責める必要はなく『既に結果は決まってて、自分はそこに行くための方法を選んだだけ』と考えれば納得しやすくなると思う

これでまだ17歳というのだから喫驚する。

多くの大人が彼女のことを「芦田先生」と呼ぶように、人間としてのスケールが大きく違う。

私は今まで、この試写会だけでなく、芦田さんのコメントを見聞きする度に、この若さで、こんなサラッと意見ができるのは相当な量の本を読んでいるのだろう、と想像してきた。

なぜなら本を読むことで、自分以外の誰かの考え方や人生を知ることをしていない限り、20年も満たない人生経験では辿り着かない境地だと思うからである。

実際、彼女は自分について、親から「何が欲しい?」と聞かれた、小さい頃から「本が欲しい!」というほどに読書大好きっ子で、活字中毒だと自著の中で述べている。

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本を通じて、いろんな人の意見を聞いていると、「どの意見や感想も間違っているなんてないんだろうな。どんなことにも、いろんな人の意見があっていいんだな」と感じることが増えたという。

そんな彼女は、女優業と学業があるにもかかわらず、今でも読書の総量は年間100冊以上。

本を読まない人が半数近くいる現代において、堂々の上位3.2%入りだ(*1)。

ジャンルも古事記、推理小説、エッセイ、SF、日本書紀、純文学、まで幅広。

本や読むものが手元にない時は、たまたま置いてあった調味料のビンの裏に書いてある「原材料」「製造元」の文章を読む、ということから、もはや読むことは癖になっていることが窺える。

芦田愛菜さんは、「子供の頃から沢山読書をしている人」と「人間としてのスケールが大きく違う」ことを私の中で結びつける代表的な存在だ。

彼女のような著名人ではないが、私の知人にも思い当たる人がいる。

前職マーケティングファームで私は沢山の人にお世話になった。

中でもとりわけ印象に残っているのが、顧問をしてくれていたコンサルタントのAさんである。

決して話しかけやすい人とは呼べなかったが、その実力の高さは真に確かなものだった。

ユーザーリサーチ、データ分析、企画立案、提案書作成、コンサルティング、企業研修、セミナー開催、など様々な案件で、私はその力を借りた。

Aさんの、

「分かりやすく読みやすい文章」

「圧倒的な話の面白さ」

「物事の本質を探り当てる力」

「企画の角度の鋭さ」

はいつも学びに満ち溢れ、その度に人間としてのスケールの違いを大きく感じていた。

そんなAさんとした会話の中で、最も私が衝撃を受けたものといえば、

小学校の時、授業がつまらなかったから、図書室にある本を全部読んだ」というものだった。

この話を聴いたのは確か一部上場企業の事業再生プロジェクトをご一緒した時だったと思う。

プロジェクトの半ば、初日のワークを終えた私たちはその晩、宿舎で晩酌をしていた。

Aさんは誰から見ても読書家だった。

図書館に行っては本をどっさり借りて、毎日時間のある限りそれらを読んでいた。

その様子が私の目に焼きついていたため、いい機会だと思ってAさんに質問した。

「そういえば、毎日本を読まれてますけどその習慣はいつからなんですか?」

するとAさんは一言。

「小学校かな。」

「え、小学校の時から毎日本読んでいるんですか・・・?」

そう、授業がつまらなかったから図書室に置いてある本は全部読んだ。

「まじすか・・・・」

私は言葉を失った。

それと同時に、なぜAさんに人間としてのスケールの違いを感じてきたのか、その答えが分かった瞬間だった。

他にもある。

少し前に、人伝てにとあるエピソードを聞いた。

聞かせてくれたその人を仮にもBさんと呼ぶ。

Bさんは最近とある20代の経営者とお知り合いになったそうだ。

曰く、その経営者は、明るく大変前向きな人品で、鋭敏なビジネスセンスと行動力を持ち、人間としてのスケールの大きさを感じたという。

関心を持ったBさんが聞くと、その方は大変な「読書家」であることが判明。

ビジネスのみならず、歴史、哲学、テクノロジーなど多分野に深い造詣があり、現在進行形で様々な分野の本を読んでいることに大変驚いたそうだ。

Bさんがさらに詳しく話を聞くと、

その方は、幼少の頃に、ご両親と「本を読んだら1文字一円換算ができ、年始に去年一年分の読書貯金をもらうことができる」と約束を交わし実際に取り組んできたことが分かったのだという。

そして、その方は、

「最初はお小遣い欲しさに本を読むようになったが、読んでいくうちに知識と知識がつながることに楽しさを覚え、どんどん読書が楽しくなっていった」

「これが現在の読書習慣の礎になっている」

自分にもし子供ができたら、親が自分にしてくれたように読書貯金をしたい

と、想いを打ち明けてくれたということだった。

「子供の頃から沢山読書をしている人」と「人間としてのスケールが大きく違う」は、最近になって読んだ本とも結びついた。

それは、日本を代表する数学者で、お茶の水女子大名誉教授である藤原正彦先生が著した「読書」にまつわる本である。

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藤原先生は、本の中で「国家の力」は「国語の力」に依存すると主張し、その力は「読書」によって培われるものだと断言している。

そして、読書は「高次の情緒」を私たちにもたらし、人間としてのスケールを変化させてくれる極めて有用なツールで、「論理」とは十全な情緒があってはじめて有効となる、と結論づけた。

少し長くなるが引用で紹介させていただく。

現実世界の「論理」は、数学と違い頼りないものであることを述べた。

出発点となる前提は普遍性のないものだけに、妥当なものを選ばねばならない。

この出発点の選択は通常、情緒による。

その人間がどのような親に育てられたか、これまでどんな先生や友達に出会ったか、どんな本を読み、どんな恋愛や失恋や片想いを経験し、どんな悲しい別れに出会ってきたか、といった体験を通して培われた情緒により、出発点を瞬時に選んでいる。

また進まざるを得ない灰色の道が、白と黒の間のどのあたりに位置するか、の判断も情緒による。

「論理」は十全な情緒があってはじめて有効となる。

これの欠けた「論理」は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。

(太線は筆者)

ここでいう情緒とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。

それなら動物でも持っている。

もう少し高次のものである。

それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。

実体験だけでは時空を越えた世界を知ることができない。

読書に頼らざるを得ない。

まず国語なのである。

高次の情緒とは何か。

それは生得的にある情緒ではなく、教育により育くまれ磨かれる情緒と言ってもよい。

たとえば自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが、他人の悲しみを悲しむ、というのは高次の情緒である。

他人の不幸に対する感受性も高次の情緒の一つである。

伝統的に、この情緒を育てるうえでの最大の教師は貧困であった。

働いても働いても食べて行けない、幼い子供たちが餓死したり医者にもかかれず死んでいく、という貧困である。

有史以来四十年ほど前まで、我が国にはこの貧困が常に存在した。

これが失われてからこの情緒は教えにくくなった。日本に貧困を取り戻す、というのは無論筋違いである。

幸いにして我が国には、貧困の悲しみや苛酷を描いた文学が豊富にある。

これら小説、詩歌、作文などを涙とともに味わい、その情緒を胸にしっかりしまいこむことが大切と思う。

高次の情緒には、なつかしさ、という情緒もある。

人口の都市集中が進み、故郷をもたない人々が増える中で、この情緒も教えにくくなっている。

幸いにして、望郷の歌は万葉の頃から啄木や茂吉に至るまで、素晴しいものが数多くある。

朔太郎や犀星などの詩まで含めると、この情緒は日本のお家芸とも言える。

国語の時間にこれらを暗誦し、美しいリズムとともに胸にしまいこむことが望ましい。

日本の誇る「もののあわれ」もある。

我が国の古典にはこればかりと言ってよいほど溢れている。中世文学を研究している英国の友人によると、やはり「もののあわれ」が英国人には難しいと言う。

英国にもこの情緒はもちろんあるが、日本人ほど鋭くないので言語化されていないらしい。

古典を読ませ、日本人として必須のこの情緒を育むことは、教育の一大目標と言ってよいほどのものである。

(太線は筆者)

「数学では現実世界に適する論理を身に付けることはできない」

「読書が高次の情緒を培い、人間のスケールを大きく変える」

「国語力を向上させ、人々を読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっている」

これが本質にしか興味のない日本を代表する数学者の主張である。

私にとって藤原先生の著書は衝撃的なアタリ本で、この先の人生で私を読書に向かわせる遥かに大きな動機付けとなった。

「子供の頃から沢山読書をしている人」は、人間としてのスケールが大きく違う、については一つの真実と言っていいだろう。

では、子供の頃から沢山読書をしてきていない人のスケールは変わることはないのだろうか??

これの問いに対して、

「そんなことはない」

「今からでも遅くはない」

と藤原先生は自著の中で述べている。

将来の自分のスケールを大きくしたいと思うのであれば、とにかく読書をしよう。

今からでも遅くはないのだから。

*1.「読書」の「人を精神的に強くする」という効用についての話。

【著者プロフィール】

田中 新吾

「どの本を読めばよいかわからない」という人は、ひとまずの目安を「十年以上前に出た本」に置き、今でも売れ続けている本を読むのが良いと知りました。

そうすれば、少なくとも内容に関して、ほとんどハズレはないからと。「10万部売れた」「30万部売れた」という実績に踊らされない本を選ぶ目線もしっかり養いたいです。

プロジェクトデザイナー/企業、自治体のプロジェクトサクセスを支援しています/ブログメディア(http://ranger.blog)の運営者/過去の知識、経験、価値観などが蓄積された考え方や、ある状況に対して考え方を使って辿りついた自分なりの答えを発信/個人のプロジェクトもNEWD(http://ranger.blog/newd/)で支援

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