タナカシンゴ

私は「バカ」と共に生きている、という話。

今毎週観るのを楽しみにしているTVドラマがある。

ボイス2 110緊急指令室」だ。

主演の唐沢寿明とボイスプロファイラー(声紋分析官)の真木ようこ等が総力を結集させ、制限時間内に人々を救出するというサスペンスドラマである。

ボイス1の時から妻とハマってしまい、ボイス2の放送が決定した時は二人で歓喜したほどだ。

1の時からそうなのだが、直視できない猟奇的なシーンが満載で終始ハラハラドキドキが止まらない。

観終わった後は結構な疲労感に包まれる。

それでも「次も観たい」と思うのだからハマっているといって違いないだろう。

そんなボイス2 第6話は「悪質Youtuber」を題材にしたものだった。

詳しい内容は省くが、有名になりたい一心のある「YouTuber」に薬物投与された少女が帰らぬ人となってしまった、という強烈な結末を迎えた。

これを観た私は思った。

この人はなんて『バカ』なYouTuberなのだろう」と。

しかし、同時に

でもこれは現実にも十分あり得ることだし、他人事ではないんだよな」とも思った。

今回はその話をしたい。

SNSにはバカを生産する「3つの特徴」がある

私は以前「バカの研究」という本を読んだことがあった。

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本書は「バカとは何か?」という疑問に対して、様々な視点から答えをくれる本である。

そういう意味では「バカの辞典」「バカのマニュアル」と呼ぶべきものかもしれない。

24人の一流科学者、名門大学教授、その道のスペシャリストたちが、自らの専門知識を駆使して至極まじめに「バカ」について考察しているのだが、ここにはノーベル賞受賞者の「ダニエル・カーネマン」も名を連ねている。

これこそまさに「バカげた行為だ」と思われても仕方がないほどに世界最高峰の頭脳を「バカとは何か?」のために結集させているのだ。

前出のボイス2を観終わった後、私はこの本の中にあった「SNSのバカ」に書かれていたことを思い出した。

「SNSのバカ」は、フランソワ・ジョストというメディア学者によって書かれた章である。

ジョストは、SNSが「バカを生産するシステム」だとして「3つの特徴」を挙げている。

・人間の生活がスペクタクル化(見せ物化)される

・何でも裁きたがる傾向

・自分の存在意義のために有名になろうとする欲求

SNSは、あらゆる人の人生を上っ面だけのスペクタクル(見せ物)なものとして消費させ合う。

当事者にとって大事なのは、行為そのものというよりも「他人にどう見られるか」。

そして、当事者と傍観者を画面一枚で完全に分離し「イメージによって媒介される社会的な人間関係」をコミュニケーションの基本とさせる。

この人間関係の距離の遠さは「安全性」となり、万人をコメンテーターへと変え、有無を言わさず他人の行為をバッサリと裁かせる。

「有名になろうとする欲求」は際限なく暴走し、

今からわたし達は、世界史上もっとも危険な動画をこれから撮るつもりです

と胸元に分厚い百科事典を抱えた夫に向けて銃を放つような妻をも生み出す。

この女性は「百科事典が銃弾を受け止めてくれると思った」というのだからまさに「エベレスト級のバカ」である。

他にも、アイスの冷蔵庫に入る。

窃盗・交通違反などのやんちゃな行為を自慢する。

とにかく「人に見られたい」という一心でバカになってしまっているから、やっていいことと悪いことの区別が全然つかない。

仮に区別がついたとしても、バカになっているからブレーキは効かない。

SNSはこのような「バカ」を生産するシステムであるとジョストは苦言を呈しているのだ。

そしてここで一つ重要な事実が明らかになっている。

それは、この特徴がSNS(やインターネット)にある以上、それを使っている「私自身」も立派なバカたり得るということである。

昔「ウェブはバカと暇人のもの」というインターネット社会を揶揄した書籍を読んだことがあったが、今の方がよくわかるところも多い。

私は「バカ」と共に生きている

国内における「バカの研究」といえば、多くの人が「養老孟司氏」を思い浮かべるのではないだろうか。

そんな養老氏が書いたベストセラー本「バカの壁」の冒頭に、こんなエピソードが記されている。

「話せばわかる」は大嘘

「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。

イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。

薬学部というのは、女子が六割強と、女子の方が多い。そういう場で、この番組の感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。

男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。

ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。

一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。

同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。

これは一体どういうことなのでしょうか。

同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。

だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。

その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。

要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。

だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。

つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。

ここに壁が存在しています。

これも一種の「バカの壁」です。

このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。

同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」と言う。

明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。

私たちが日頃、安易に「知っている」ということの実態は、実はそんな程度なのだということです。

ビデオを見た際の男女の反応の差というのはかっこうの例でしょう。

(太線は筆者)

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そしてこの後、養老氏は

「知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります。例えばイスラム原理主義者とアメリカの対立というのも、規模こそ大きいものの、まったく同じ延長線上にあると考えていい。」

と続ける。

この「知りたくないことには耳をかさない」という状態こそが「バカの正体」だというのだ。

言い方を変えれば「不都合な情報の遮断」をしている状態とも言えるだろう。

知りたくないことには耳をかさないバカは、偏見を持ち、思い込み、他の可能性を探らない。

有名になりたい一心のYouTuberにとって、不都合な外野の意見は情報として遮断してしまう。

そして、この「知りたくないことには耳をかさない」は、私たちがもっている脳が時として陥ってしまう特定の状態であるため、脳を持つ人間なら誰でもいつ「バカ」になってもおかしくない。

SNSやインターネットがバカの生産システムであるというのも「知りたいことだけに耳をかす」ことが容易にでき、それに集中できるのだから当然だと言える。

私は本稿のタイトルに『私は「バカ」と共に生きている』というものを選んだ。

ここには悪質YouTuberのような「バカな人たち」と一緒の世界を生きている、という意味が含有されている。

しかし本意はこれだけではない。

私自身もいつだって「バカ」たり得る。

私も常にバカ(な状態)と隣り合わせな世界を生きている」ということを主張したくてこのタイトルを選んだ。

「バカ」とどのように付き合うか?

「バカの正体」を知り、「バカと共に生きている」ことを自覚すると、「じゃあバカとどのように付き合うか?」という考えが生まれる。

「バカ」とは一体どのように付き合っていけばいいのだろうか。

個人的に思うところを書いて本稿の締めとしたい。

まず「他者」と「バカ」について。

もしも他者が「エベレスト級のバカ」になっているとしたら、その狂信状態を正常に戻すのは相当骨が折れる作業だろう。

迷いがない人間のエネルギーというのは凄まじく、命の重さも分からなくなってしまっているかもしれない。

そういう人は、間違いや過ちを犯してはじめて「あの時の自分はバカだった」と自分のバカさ加減に気づく。

この状態になってしまった他者に介入する余地はほぼない。

残念ながら何を言っても無駄だ。

したがって、(精神的・肉体的に)危害を受けないように「距離」を置くのがベターだろう。

一方、軽度のバカに陥っている人であれば、少し違った視点を提示したりすることで、その人が「自分でバカな状態を回避する」ことを手助けすることはできるかもしれない。

「自分がバカだった」と気づくのはいつだって自分だ。

それから、バカになっていると思われる相手に向かって「あなたはバカだ」とは間違っても言わないでいたい。

暴言などの「無礼」が周囲のパフォーマンスを著しく落とすというのは研究結果としても明らかで、バカと言われることでよりバカになってしまう可能性だってあるからだ。

無礼な人は同僚の健康を害する

無礼な人は会社に損害をもたらす

無礼な人はまわりの思考能力を下げる

無礼な人はまわりの認知能力を下げる

無礼な人はまわりを攻撃的にする

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それから「エベレスト級のバカ」とは本人の意思だけでそうなるわけではないと思う。

生まれる背景には「周囲」が必ず影響している。

だからこそ、そういうバカが生まれないように他者と関わることも、この社会を生きる人の一つの責務と言えるのかもしれない。

そしてもう一つ。

「自分」と「バカ」について。

再三言っているとおり、私もいつ「バカ」になってもおかしくない。

もしかしたら今この記事を執筆している時も「バカ」になっている可能性さえある。

詳しいことは分からないが、おそらく「自分がバカになっている」ということについては、なかなか気付けないように人間はできているのだろう。

しかし、自分が考えていることや思っていることを日頃から客観的に見つめるトレーニングを重ねることで「バカ」をいくらか「回避する」ことはできるのだと思う。

例えば、ブログを書く、日記を書くなどで思考を外部に置き、自分を客観化するなどだ。

こうすることはバカを回避するための努力と言えるだろう。

だが、絶対はない。

一方、「バカになれ」という言葉があるように「主体的にバカになる」ことは時として人生を好転させることにもつながる。

これは俗に言う「夢中になる」や「集中する」といったこととイコールと言えるのかもしれない。

「夢中になる」や「集中する」という状態は、脳がバカになっている状態を私たちが都合のいいように言い換えただけ、という解釈もできなくもない。

いずれにしても「バカ」が「不都合な情報の遮断」であるならば、それは決してネガティブに作用する事ばかりではないと思う。

経験則だが、そうすることで「知性」や「技術」を身に付けてきたことが私にはあるからだ。

「バカとハサミは使いよう」という言葉があるが、おそらく「バカは使いよう」とはかなり本質を捉えているのだろう。

今のところこんな具合に「バカと付き合っていきたい」と私は考えている。

Photo by Adrian Maximiliano Arellano on Unsplash

【著者プロフィール】

タナカ シンゴ

20代の頃は「バカを受け入れる」ことが人生に必要なことだとは考えもしませんでした。歳を重ねるの悪くないと思う今日この頃です。

理工学部卒業後、マーケティングファームに7年間勤務。国内大手企業や外資系企業をクライアントに、営業、リサーチ、コンサルティング、商品開発、集客、マネジメント、リーダーシップの現場経験を積みジョブチェンジ。

現在は一人会社とNPOも兼業で、商品開発と集客のプロジェクト運営をしたり、webライティングをしたり、ネーミングもしたりしています。

詳しいプロフィールについてはこちらをご覧ください。

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