自分の疑問の答えをもっている人はいるもんだ。
この情報サイトRANGERのタナカシンゴさんのメンターの一人だと聞いたので、その情報だけで小坂井敏晶氏の本を探してみた。
探してみてわかったのは、著者はパリ第八大学心理学准教授であり、社会心理学に関する著書を世に送り出している人だということ。
社会心理学:個人に対する社会活動や相互的影響関係を科学的に研究する心理学の領域の一つ。
この心理学の分類も私には初耳だった。
本のタイトルが面白そうだったのでこちらから読み始めることにした。
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読み終えてまず感じたのが、「自分の疑問の答えをもっている人はいるもんだ。」というものだった。
世の中に素晴らしい知恵の詰まった人、知恵の詰まった書物はあるのだろうが、その数が多いだけに出会うことはなかなか難しい。
ましてや、自分がその時に抱く疑問にマッチングする書物(人)になるとかなり確率は低くなる。
それでも今回も、またなぜだか出会うことができた。
この本から、疑問に思うことや思考のプロセスについて、著者と自分が似ている、と感じられた。
教授に対しておこがましいのだが・・・。
同時に、教授の知識に理解が追いつかない部分もいろいろあって十分理解せずに読み飛ばしたところもある。
と、断ってもおく。
それでも、疑問や思考が似ているからなのか、共感するものがたくさんあった。
偉人たちの書物に溺れる現代人
少し前に自分が書いたコラムより。
せっかく生まれ落ちたのだから、自分の知らないもっと楽しい(苦しまない)生き方があるのではないだろうか?
楽しい生き方は、人それぞれ異なるだろうけど、自分が最高の生き方をしているとはとても思えない。
それで、これだけの書物が残っているのだから、その生き方の知恵がそこにあるはずではないか?
そんな思いを持ちながら、人生を重ねてきて思うことは、
①大学までに受けた教育ではまったく不十分であること。
②おびただしい量の本が世の中にあって何を選択すればいいかわからないこと。
③本を読んでもわかりづらい本が多いこと。
④本を読んでも身にならないものが多いこと。
これらのことをまとめると、大人ですら生きる知恵は足りていないのだが、そもそもそれを吸収するための本を読むモチベーションは下がってしまっていて、読んだら読んだでまた時間がかかり、時間がかかったわりに得るものが少なく、知恵を得る前に寿命が尽きてしまうのだ、ということ。
次に、現代人の発明、創造性について。
何か自分の中に自分らしい新しい見方が生まれた時に、探して見ると、その見方と同じことを言っている本を見つけることができてしまう。
何も自分の見方は新しいものではなかった。
例えば、100年前あるいは1000年前の人が既に考えていたのだ。
更に、自分より深く考察していて自分の足りなさを痛感する。
そこに自分の見方の矛盾も発見できたりする。
真のオリジナリティーなどに行きつくことは不可能なことに思えてくる。
自分のオリジナル、新規性はどこにあるのか?自分の主張が、既に誰かの主張を同様であるならば、自分が主張することに意義あるものなのか?と。
現代人は、過去の書物を読みつくし、それを理解して、その矛盾を指摘して、それを超える自分の主張をしないといけないのではないのか?
現代人は、書物がしっかりと保管されていけばいくほど、出版が多くされればされるほど、アイデンティティーを保つことが難しくなるのではないか?
これらのことは、「現代人は偉人たちの書物に溺れる人生を送るしかない」とすら形容できてしまうのではないのか?
私は、自分のオリジナリティーを世に残そうなどといった分不相応なことを考えているわけではないのだが、あまりの書物の多さと自分の残り人生の長さを重ね合わせて、上記愚痴のようなものが出てしまった。
今回、小坂井氏の本によって、このコラムの中の私の疑問は概ね溶解することになった。
意外な発見があって「目から鱗」というよりも、専門家でも大学の先生でもそうなんだ、やはりそれでいいんだ!という安堵の気持ちが大きかった。
偉人たちが既に答えを出していた、でいいのだ。
「どうしたら独創的な研究ができるのか?」
この問いは出発点から間違っている。
斬新なテーマやアプローチを見つけようとする時に、すでに他人との比較で考えている。
そこがそもそも独創的でない。
人間や社会を対象にする学問において大切なのは創造性ではなく、自分と向き合うことだと私は思う。
「民族という虚構」にも「責任という虚構」にも「人が人を裁くということ」にも「社会心理学講義」にも、新しいことは何も書かれていない。
※「」内は小坂井氏の書籍のタイトル。
私がぶつかった問題には、既に先達が答えを出していた。
私が無知だっただけで、私の問いの答えを人間は既に知っていた。
だが、それでよいではないか。
時間が許す限り、力のある限り自分の疑問につきあえばよい、プラトンがあるいは仏教が既に答えていたと、人生が終わる時に気づいたってよい。
それで、自分の問いに答えが見つかるならば、本望である。
この内容は本の最後の方に書かれている本書の結論のような言葉だ。
長年研究を重ねてきた大学の先生が、自分でこの結論を出して本に書いているということは、驚きであった。
本に気持ちを正直に吐露している、という意味での驚き。
小坂井氏は理系には新しい発明、発見があるが、文系には発明や発見がないものだとも言っている。
文系に新しい発明、発見はない、ということについて、経験もない私が、正しいとか正しくないなどの意見を一切言えるものではない。
しかし、一方では、自分向き合い、自分の疑問の答えを出し、自分が納得することが大切である、ということには非常に共感する。
こと人に関わるような学問においては、自分の納得感なくしてはそれを自分の人生に使えるものになるとは思えない。
小坂井氏は、知識は生きるために有効なこともあるが、知識あるいは常識と言われるものが幻想であって、例えば天動説が覆されたように、少数の異端が真実をあぶり出し、常識が破られることがあるとも主張をしている。
だから、「~という虚構」というタイトルの本をいくつか書いて、「常識で言われていることに嘘がある」として世間で常識と言われている概念を壊しに行っている。
普遍的な価値観というものも存在しない、その時代時代で道徳などの価値観は変化する、とも言っている。
普遍的な正しい知識があるならば、自分の納得なしでもその正しさを覚えればいい。
でも、そうでないならば「理解した」ということが、自分の体感による納得感(それはその知識が正しい、という脳が決定した納得感ではなく)なくしては考えられない。
外から借りてきたものは自分に馴染まない。
普遍的な正しさなどない中で、”正しさ”の強制は勘弁して欲しいのだ。
以前、書籍『どのような教育が「よい教育」か?』
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の感想を記事に書いたことがある。
この本では、教育とは、どう生きるのがいいか?という目的に連動しているべきである、という前提から、どう生きるか?の道しるべをどう作るか?について書かれている。
外で決められた道徳(例えば宗教のような)を道しるべとする、でも事実分析から道しるべにする、でも不都合があり、それぞれの欲望(=納得感)によって道しるべを作るものであるべきだと主張している。
欲望とは、これはいいことだ、これは気持ちいい、これは不快だ、これは許せない、これは不愉快だ、という確かに我々の中にある感覚から作るということだ。
このことは、小坂井氏の納得感、と自分の中では結びつくもので、外に決められた道徳(=常識)であれば、それは普遍性がないから、時代と共に不具合が起こる、ということに一致している。
法が固定であってそれに従うだけが人間ではなく、人間の欲望の総意によって法が構築されるものだということになる。
しかし、小坂井氏は「責任という虚構」で、人間は論理的なようでいて感情的であるから辻褄の合わないようなことをたくさんしていて、とても責任などとれるものではない、とも言っている。
これは、悪く言うと人間も猿のようなもので、猿のような欲望を持つものどうしが合意形成していかないとならない、ということが、非常に難しいものなのだ、とあらためて感じる。
猿ならば、神につくってもらった道徳律(宗教)を強制した方がいい、というところに堂々巡りしてしまう。
我々は、とうに道徳律(宗教)を守らなくなってしまったのだが。
少し横道にそれてしまった。
自分で考えることとは自分の納得感を実感していくこと
私が本を書く際、底に静かな怒りが常にある。
論理だけでなく、書く動機が感情で支えられないと魂が入った分析ができない。
研究者の実存に無関係なテーマで人文・社会科学の研究が可能だとは私にはそもそも信じられない。
小坂井氏が研究する理由、そして、執筆する理由は、自分を納得させるためだとも言っている。
参照:「自分で考えてみろ、というけれど」
こちらもレベルは違えど、私が記事を書く理由に似ていて共感する。
そして、納得する前にはなんらかの疑問(最初は明確ではないわずかなひっかかりのようなもの)が必ずそこにある。
なぜそうなんだろうか?
その不思議さ、気持ち悪さ、あるいはそこに湧き出る怒りを、解消したいと思う感覚、それらがエネルギーとなって人が動く。
そしてそれが解けた時にスッキリして楽になる。
それの繰り返しである。
「誰を研究しているんですか?」
と尋ねられ、辟易する。
カントにおける主体概念、ハイデカーにおける時間概念、レヴィナスにおける責任概念・・・。
そんなものはどうでもいい。
自分にとっての主体とは、時間と、責任とは、何なのか?
この答えを出すこと、大切なのはそれだけだ。
学ぶ目的は、いろいろあるだろうが、物知りになるため、専門家になって食い扶持にするため、という目的は途中のもののように思う。
自分の疑問に自分が答えて納得していくこと、これが人生の究極の目的であると思う。
なのでこのことにも共感する。
最終的に必要なことは、外の知識ではなく、自分の疑問に自分が答えることである。
外の知識は、鵜呑みにするものではなく、自分の納得感のための材料なだけなのだ。
そういえば、自分の場合、興味のないことは覚えが非常に悪い。
受験勉強のほとんどがこの興味のないことだった。
その一方で、自分が気になること、自分の疑問については、しようもない細かいことでも覚えていて何かの時にそれが浮上してくる。
強制される知識の記憶は苦痛でしかない。
その他共感する言葉
本の中にある共感する言葉(引用含む)をいくつかメモリーのためにバラバラと上げて起きたい。
デカルトの有名な章句、
「我思う、故に我あり」
のラテン語の原意は、
いろいろなものを混ぜてかき回すことである。
小坂井 敏晶
「学校が、どういう労働力を育むかという視点が前面に出される、ことに違和感を禁じ得ない。
『飼育』いや『調教』か。」
小坂井 敏晶
「学校で僕らが学ぶ、最も重要なことは、『最も重要なことは学校では学べない』という真理である。」
村上 春樹
「評価基準を一律に設定した競争によって、個性が殺される。
(逆に言うと)同一化すると激しい競争に巻き込まれる。」
小坂井 敏晶
「算盤を弾いて、『やりたくないこと』を今は我慢してやることができるようなタイプの人間には、イノベーションを担うことはできない。」
思想家:内田 樹
これらの言葉には、「よく言ってくれたなあ」「うまいこと言うなあ」と感じた。
本には自分の思っていることの代弁としての意義もある。
本は、自分の思っていること(時に過去の痛み)を鮮明にして強化して確信に変えてくれる。
新しいことを学んで「へぇー」「ほぉー」と驚くのも本の愉しみかもしれないのだが、「そうそう」「そのとおり」という共感の愉しみの方が最近は大きいように思う。
自分の一旦の納得感
この本には、自分に張り付いている常識を溶解させてくれるものやそうそうよくぞ言ってくれました、というものがたくさんあった。
人間というものも客観視ができないものだ。
何か自分の意図を持った瞬間に見方に偏りができる。
自分をしっかりしている、論理的だ、と思ったことが今まで一度もないと言えない。
調子に乗って、また、しっかりなどしていない、と感じざるを得ない出来事が起きて、落ち込んで。
人生はその繰り返しだ。
感情的であり、感情を正当化するために策略を立ててごまかす。
しっかりした人を演じている、演じていればまだましだが、演じようとして演じ切れていない。
客観視できないことが劣等感に苛まれず、生きる勇気になっている安全装置の面もあるのだろう。
そうやって生きるのに精一杯でいる。
そのくらいの感覚で自分を見て、それは非常に面白いものである、という認識になったほうがストレスはないのだろう。
周りの人が論理的だ、と思う偏りによって現実に裏切られて、そうではない感情的な面がやっと見えてきて、偏りを緩和させられる。
周りの人の感情的な面が、猿(極端だが)に見えてきてそれを見てはまた怒る。
そう、怒っている自分もまた猿なのだ。
人間は論理的でもあるが感情的でもある。
ここで自分が言っているこのこともまた、何も新しいことではない。
まったくの陳腐である。
まさにこのように、自分が何かに納得した時(疑問が解けて)にその解には新しいものは何もないのだろう。
それでも、本人が納得していればそれでいい。
自分の納得する回答を探して行く。
非常に浅い解でいい加減なところで納得しているのかもしれない。
それでもそれでいい。
もし思考が浅い解であればその先にまた矛盾が生じ、新たな疑問が浮上するだろう。
その時にそれに向き合うだけだ。
最後に、偉人に対してささやかな抵抗をしてみよう。
自分の納得した解に何も新しいものがないとしても、その納得まで至った経験、そして、思考のプロセスは唯一無二のものだ。
その経験と思考のプロセスは、偉人のプロセスよりも言葉足らずにならずにわかりやすくて共感する人もいるのではないだろうか?
いくら偉人が深い考察をしていても、その深さゆえに響く人は限られるだろうし、そのプロセスが生きていた時代が異なるために、現代人にはピンとこないものもあるだろう。
「我思う、故に我あり」
のような名句は抽象的であるがゆえ、普遍的であるように感じられる。
ところが、デカルトがこの言葉に込めた思い、背景を等しく他人が捉えることはできない。
デカルトの背景やプロセスからくる思いを追っかけ続けることには限界があり、自分なりに感じることしかできないのだ。
それぞれの思いや捉え方は、それぞれの経験から複雑に織りなし、異なり、この名句にそれぞれの納得感や違和感を感じながら時代は移っていくのだろう。
それぞれの思いや捉え方になると普遍性という意味合いが遠のく。
自分は自分の今の経験、そこから浮上する疑問に対して、自分なりの解、そして、その納得感で解消していく。
誰かの共感は不要。
万が一共感する人がいて、それについて話せればそれはそれでラッキー。
それでいいのだ。
そして、自分が疑問さえ持ち続けられれば、自分の納得感が得られる書物(人)に今回のように偶然にめぐり会うことができるだろう。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
自分は自分の納得感(仮)をずーっとつないでいきたいのだ、と確認できました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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