不要不急問題を考えることに意味があるのか?
朝起きて意識がはっきりしてくると、瞬間瞬間に「やりたいこと」が自分から湧き出てくる。
トイレに行きたくなったり、美味しいものを食べたくなったり、仕事を始めたくなったり、と。
これら以外にやりたいものを探すと、「疑問が生まれて、その疑問を解決したい」という欲求があることに気付く。
この解決したい疑問の多くは、仕事や生活に関わることであり、解決しないと支障が出る類のものだ。
目の前に問題が急に現れて、解決する必要に迫られたりする。
ところが、その一方では何も困ってなくて今解決する必要はないのだが、それでも解決したい疑問がしばしば湧いてきていることがある。
湧いてきたその疑問は、常に意識しているわけではないのだが、自分のどこかにずっとひっかかっていてずいぶん経過した後にそれを認識したりすることになるものだ。
この解決する必要のない疑問は不要不急の疑問とでも言ったらいいだろうか。
例えば、
愉しく生きるってどういうことなのか?
人間は進化しているのか?
社会は今後よくなるのか?
なぜ、あの人はあんなに怒っている(悲しい)んだろうか?
なぜ、人は苦しいのか?
・・・
漠然としていて、どうでもいいような疑問ばかりである。
なぜ、このような疑問が湧いてくるのだろうか。
単に、目の前に解決すべき問題がないから、なのかもしれない。
この不要不急問題の解決願望の意味するものとは何なのか?
人はいつもどんなことを考えて生きているのか?
一冊の哲学書が、これらについていろいろ頭を巡らせることに、私をいざなってくれた。
美について
田中 美知太郎氏は、一般的には難しいとされる哲学を非常にわかりやすく解説してくれる哲学者で、平易な文章に定評があるという。
山本夏彦の本で知った。
偉大な哲学者たちに精通しているだろうから、「哲学まとめ」といった形で学びをショートカットできるのではないか、という下心もあって読み始めたのだ。
彼の著書『生きること考えること』には、「考えることについて」「美について」など当たり前に自分の周りに存在しているが、抽象的であって普段は深く考えることがないような言葉についての解説がされている。
考える、あるいは、美について考えるということは、まさに目の前の問題とは遠い不要不急問題であり、不要不急問題好きの私ですら、疑問をもつことはなかったものである。
そもそも哲学は、生活からもっとも遠くて生活に必要のないものと認識されているのだろう。
この本の冒頭は、「自由にかんがえること」について書かれていて、これがいきなりインパクトがあって私の中にひっかかって残るものになった。
その前に、まずは「美について」を紹介したい。
考えてみれば当たり前のことが多いかもしれない。
人は、美しいと感じる力ー感性を持っていて、理由なく美しいと思える時が必ずある。
自然の美しさに、美人の異性に、親の愛に、美術品や音楽に、巧の技に、何かを大切にして生きた人生に・・・美しさは様々なところに存在する。
絵画の値段を知って後付けで美しい、と感じる人もいるだろう。
人が、美しい、と感じた時に、脳内ホルモンが出るのか、気持ちがいい状態、幸せな状態になり、人に優しくなれたり、別にある解決すべき問題を忘れたりすることができる。
これが「美」のわかりやすい効能と言える。
ならば、美を生活に散りばめて生きればそれで幸せになれるのではないのか?
と短絡的に仮説を立ててみるが、そうはいかない。
美の鑑賞による幸せは、明日への活力になるものの、やはり短期的なもので、翌日から美とは離れて醜も混じった生活も受け入れざるをえない。
この視点から見ると、美は劇薬のようなもので、医学でいうところの根本療法ではなくて対処療法のように感じる。
醜が混じった生活は、食べていくためにも必要である。
ここらへんに「美」というものの限界を感じる。
では、一生食べていけるだけの蓄えがある人ならばどうなのだろうか?
美の鑑賞だけでは飽き足らなくなるのが人という者なのではないのかと思う。
鑑賞だけに飽き足らず、自分で作り始めたり、美術品について学んで解説し始めたり、鑑賞で美しさを感じるだけの人生を選択しないはずである。
そして、もっと美しいもの、もっと美しいものという具合に、上を求めるようになる。
非常に基本的なことだが、「美」の最大の効能は、「美しい」を感じられ、一方で「醜ー美しくない」を感じられる、という分別にある。
人は美醜を分別することで、美しい方に導かれ、美しさを目指し、逆に醜いものを避けるように動く。
「美しいもの」と「美しくないもの」の分別が生じることによって、人に「美」を求める、という目的ができる。
これは目的ができることは、同時に美への執着が起こる、と言うことになる。
人には「美」を追求するという目的を止めることができなくなる傾向があり、求めても「美」の理想に到達しないことでまた別の苦しみが生まれる。
理想ができると苦しみが生まれる。
ここに「美」の功罪がある。
「美」は人間に力を与える不可欠なものではあるが、人間は「美」を感じることから始まり、快楽の享受と苦痛を含む努力のバランスさせながら、「美」に対して一定の距離感をとることでようやく健全になるものだ、と一旦結論づけてみる。
そして、一般的にも言える物事の分別の意義と一方での分別による執着の弊害、そして、人が物事に対して取るべき中庸的な姿勢を確認することができる。
自由にかんがえること
「自由にかんがえる」ということも、簡単に言葉にできるのだが、その中身を深く考えることはなかなかない。
まず、自由と言っても何でも脈絡なく考えるのではなく、論理性を持ちながら考えること、という定義付けが前提になっている。
確かに、こうだからこう、ならばこう、というような物事に連関がない思考というのは散漫になり何も意味しないものになる。
この前提の次に、「自由にかんがえる」とは、「何かの目的もなく、何かを利するものもないことを考えることである。」という言葉が飛び込んできた。
私はこの言葉にハッとさせられた。
人が日頃考えていることのの中身は、仕事をうまくこなすためであったり、商売をうまく回すためであったり、スキルや資格を得るためであったり、将来何かになるためであったり、より健康な生活をすることであったり、子供をうまく育てるためであったり、といったものである。
これらはどれにも何かの目的があって、その目的を達成するためのことである。
このような目的があるものは、目的を達成するという条件に制限された思考になるから自由な思考ではない、というわけだ。
いつからそうなったのか不明だが、自分も将来の目的を持ち、それに向けてそれ以外のことに時間を割かずに努力する、というのが正しい生き方だと言われて、それにしたがって生きてきた。
このルールからすると自分の目的と関係のないことを考える時間は、無駄な時間であると言える。
ほとんどの時間を何かの目的のために費やし、それだけでは集中が続かないから、休憩、ストレス発散のために、趣味や娯楽に時間を費やし、回復させて1日24時間が終了する、というのが多くの人の生活になるのだろう。
著書では、趣味や娯楽時間も自由に考えている時間ではない、という。
趣味や娯楽も目的達成を目指すために必要な時間であり、目的を達成するという条件により制限されたものであるからだ。
更に本来の「教養」というものは、仕事、資格、スキル、生活とは関係しないものであるともいう。
私という人間は、合理性が大変好きなタイプに育ち、無駄を省くこと、楽をして欲しいものを手に入れることが自分らしさであり、自分の優秀なところである、と自負してきた者なので、この指摘は特に刺激的なものである。
この私の直線的な合理性は、直接仕事ではないことに問題がちょっとずれただけで何もアイディアが出ないというところに現れてしまったことが思い出される。
そして、この常識のなさというか、教養のなさというか、視界の狭さを反省するに至る。
「教養」というの言葉の定義にはいろいろなものがあるのだが、その中でこんな意味がネットにあった。
学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。
「心の豊かさ」という意味合いも幅広くてどうとでも解釈できるのだが、自由であることに豊かさがあり、無駄なところにこそ豊かさがある、ということにつながるものではある。
理想の社会を創造する
人間は社会的な動物であって、社会のルールの中でよりよく生きようとしている。
人生に目的をもち、目的達成のために注力していくことで、達成の可能性は高まり、達成することで幸せを感じるものである。
これらは賢明な生き方なのだが、逆に見ると自分が社会化することに一生懸命になり、社会のルールに自分を埋没させて生きることのようにも見える。
目的を設定することは、その目的だけに翻弄される面がある。
四六時中、目的のことを考えないといけないことになり、目的を追いかけ続ける人生になる。
未来の目的ばかり追いかけていることを「今を生きていない」と言われたりもする。
実用から解放された知性が純粋な自己自身となって、自由に考えていく時に、かえって実在の純粋なすがたが見つけられるというのが、古来の純粋な学問に共通する確信であった。
人は何かの役割を任せられればその役割に制限されて思考が限定されるように、目的の設定によって同様に思考が制限され、発想が抑制される面がある。
このことは、純粋な自分から乖離することにもなる。
役割や目的をはずすことが、思考の制限を取っ払う方法なのである。
ここには目的から離れることで、逆に目的の達成に近づける、という逆説的な意味合いが含まれる。
このように言われると確かに、目的を追いかけ続けることで人生が終わってよいものだろうか?
社会の常識のような「目的を明確にする」ということは絶対真理なのだろうか?
「無目的」の思考とは、無駄と悪者扱いされるが豊かさそのものなのではないのだろうか?
などという疑問が湧いてくる。
美醜という分別に対しても中庸的姿勢が必要であるように「目的」と「無目的」という分別に対しても、中庸的姿勢が必要なのではないだろうか?
「目的」に対する思考と「無目的」な思考の両方を意識して、次元の違うところから「目的」を眺めることに、「目的」を達成するためのヒントがあるのではないだろうか?
考えごとは、実務を離れて一種の遊びとならなければならない。
学問の独立には、つねにこのような解放が先行し、悠々とした遊びが学問の一面となる。
考えることは遊びである。
考えることは本当は愉しいものである。
しかし、設定した目的のために考える時間が長いと疲れて、愉しいはずの考えることを避けるようになってしまっている。
これはせっかくの愉しみを奪われているというもったいないことなのだ。
ここにも、遊びが学問である、という逆説的な意味合いが見える。
ところで、今の社会に順応しようとしているのだが、そもそも社会をもっと素晴らしいものに変貌することはできないのだろうか?
目的を追いかける時間を減らして、無目的なことを考える時間をもつことができる社会の実現。
目的について考えることを遮断する時間をしっかり持って、目的だけに追われない生活はできないものだろうか?
目的について考える時間が長い方が、目的達成の確立が高まるに決まっている、だから気は抜けないのだ、という考えをひっくり返すことはできないだろうか?
今の生活で自由な思考に時間を費やせないのならば、設定している目的が高すぎるのではないだろうか?目的をあきらめるべきなのではないか?とすら感じてしまう。
人生の一部を目的を持たない思考をする時間に割いても目的(仕事や生活等)が達成されてうまく回るような社会。
このような社会の実現で、人間はもっと豊かになれるのではないだろうか?
これも何でも楽をしたい私というなまけ者のわがままな妄想にすぎないのかもしれない。
それでもこのような自由な思考が、新しい社会の創造につながることを信じるものである。
いや、社会がどうだから、などと環境のせいなどにせずに、もう既にそのような生き方をしている人は存在しているのかもしれない。
ここまでの自由な思考の意義について、まとめてみる。
●制限されずに考えたいことを考える幸せ
●純粋な自分の表現
●固定観念からの解放
●次元の異なるところから出現する智慧
●新たな生き方、社会の創造
冒頭の不要不急問題の中にはこの目的がはっきりしない問題であることが多いと思える。
「目的」が全くないものであると言い切るにはもっと吟味が必要かもしれないが、とりあえず脳の計算から離れた欲求のように感じる。
「目的」も「利するもの」もない思考、理由はわからないが湧いてくるこの不要不急問題を解決したいという欲求を満たすことが、自分の幸せであり、それが純粋な自分であり、それはこれまでの思考の枠から自分を解放し、新たな智慧を得ることになる、そして、それは新しい社会を創造することにつながるのだ。
この結論は、何も「目的」を持つことを否定するものではない。
計算高い脳が設定する「目的」が、社会というルールに合わせることだけに終始し、自分が本来もつ純粋性を支配してしまうことに懸念があるだけなのだ。
社会でいうところの成功に「目的」を合わせてはいけない、社会がなんと評価しようと自分のやりたいことをやる、ということである。
これは極端な物言いかもしれない。
現実的には、中庸に照らし合わせて、「目的」と「無目的」を統合する姿勢が必要になるということになる。
これらの意味合いからも、不要不急問題を考えることは大切な行為だ、という結論に至った。
何度も繰り返していることなのだが、自分の根底にある素直なものを脳がどこまで尊重できるか、ということにつきるのだ。
自由な思考には、答え合わせも評価も責任もない。
物事は功罪を含み、時に肯定が否定に代わり、否定が肯定に代わる。
見方によっては逆も真なりに豹変する。
これによって自分が服役していた牢獄から解放される。
だから自由な思考はどこまでも広がって、疲れ切っていない限りにおいては、それだけで愉しいものなのだ。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
読書というものは、まさに、この不要不急問題を考えるキッカケになるので、そういう意味でも有用なものなのだとあらためて感じました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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