「狩りの思考法」は、これからの時代の生き方を考えるのにきっと役に立つと思う。
今、私たちは「未来を予期をすること」によって「安心」を手に入れている。
どういうことか?
・GoogleMapでお店探し、星の数や寄せられるレビューを見て、このお店なら失敗はなさそうだという「安心」を手にしてお店を選ぶ
・昨日まで異常がなかったことを確認し、今日もきっと大丈夫だろうという「安心」を得て、大勢の人がひしめく満員電車に乗車する
・マッチングアプリで事前に相手の情報をたくさん収集して、コミュニケーションを取り、相手が裏切ることはなさそうだという「安心」を得てから、デートをする
といった具合だ。
「これもそうなのでは?」と考え出すと本当にキリがない。
要するに、私たちの生活において未来予期は至極当たり前のものとなっているのだ。
なぜかと言えば、人間には未来予期を欲する欲求が本能的に備わっており、それを満たすための多大なる努力を人類がしてきたからだろう。
かくいう私もこの恩恵を見事にたくさん受けている。
未来を予期して検証をする、というのは現代のビジネスにおいても絶対的に必要なことで、生活においてもこれによって沢山の安心を獲得し、だからこそ精神崩壊が起こらず今日まで生きてこれたのは紛れもない事実だ。
しかし実を言うと、個人的には、20代の頃からこういう未来予期漬けの生活に「つまらなさ」を感じていたところもあった。
それゆえ「未来予期をしない行動」を意識的に取り入れるようなことをしてきたところがあるのだ。
例えば、
・特に何も調べず直感的に良さそうだと思った飲食店に入ってみる
・宿の予約や旅程を立てずにとりあえず体だけもって行って、スマホはオフにして、そこに一定期間滞在するという旅をする
・レビューは見ず、自分が直感的に良さそうだと思ったものは買って試してみる
・ランニングやウォーキング中、通ったことのない道に急に入ってみる
などである。
こういう行動には「安心」感は伴わない。
むしろ、失敗するリスクや不幸になるリスクを感じ不安に思う気持ちの方が大きい。
しかし、その状況が自分にとってはエキサイティングで面白くもあり、だからこそ今になってもこういう動きを意識的にするようにしているところがあったりするのだ。
「狩りの思考法」という超アタリ本
最近超アタリ本に出会った。
個人的に言えば、ここ数年の間で読んだ中でも間違いなく上位にランクインしてくる。
「狩りの思考法」という本だ。
この本は2021年10月に出版されたもので、著者は角幡唯介氏という方。
この本ではじめて「角幡唯介」という人の存在を知ったのだが、この方の書いた著書をすべて読みたいと思わせるくらいに「狩りの思考法」には突き抜ける面白さがあった。
何を隠そうタイトル通りで、角幡氏は「狩り」をしながら生きている。
年間のおよそ半分をグリーンランド極北にあるイヌイットの村・シオラパルクというところで過ごし、伝統的な犬ぞり移動と狩猟による食料調達での漂泊旅行を積み重ねているというのだからなんともエクストリームだ。
そして本には、そんな角幡氏が厳しい自然や予測困難な未来の中で、生と死に向き合う思考法が所狭しと綴られていた。
取り上げたい話題は幾つもあるのだが、私にとってとりわけ大きな発見となったのは「未来予期優先の生活から抜け出ることをなぜ私は面白いと感じるか?」に対しての回答があったことだろう。
私は時折未来予期から外れるような行動を取るようにしてきたと冒頭に述べた。
ところが、角幡氏は私のそれとは比べ物にもならないほどに、未来予期が優先されない生活が平常でありその面白さを全身全霊で感じ取っていたのだ。
そして、未来予期が優先されない状況において、目の前の真の現実に対峙しその瞬間に入り込むことに人間の「生」が動き出す始原があると述べていた。
私が「それ」をなぜ面白いと思うのかの理由は、まさしくこれだと思ったのだ。
私たちは「未来予期を得られた」という安心感が欲しいだけ
角幡氏は、未来予期について「混沌とした現実を見ないようにするための仮象」だと言っている。
こうした言語化に出会ったのは初めてだったが、驚くほどに私の腹にストンと落ちした。
「混沌とした現実を見ないようにするための仮象」とは一体どういうことか?
身近な例として「ラーメン屋」について取り上げていたので紹介させていただきたい。
目の前に旨そうなラーメン屋があるとする。
旨そうだが一見でいきなり入るのは怖いので、情報検索してその店の評判をたしかめる。
そうしないと、いきなり店に入って醤油ラーメンを注文するなどという破天荒な荒業は、この高度情報化社会においてはあまりに先行き不透明で、リスクが高すぎ、ほとんど狂気の沙汰とすらいえ、人びとの同意を得られないからである。
なので当然のことながら口コミをチェックする。
結果、なかなか味は良いらしく、おかげで不確定状況が確定状況にかわった。
これで安心安全だ、ということで店に入って醤油ラーメンを注文する。
ところが口に入れてみると、これがまたなんとも微妙な味、というかはっきり言って店主をぶち殺したいほどクソまずい、ということが縷々あるわけである。
このように未来予期はあくまで仮象であり、真の現実は渾沌としており、旨いはずの醤油ラーメンがクソまずかったりする。
おそらく思い当たるところもあるだろう。
どんなに現実世界の本質が「先が読めない点にある」としても、何度まずいラーメンを食わされようとも、私たちが未来予期を捨て去ることはありえない。
なぜならば、私たちは別に「正しい未来予期」が欲しいのではなく「未来予期を得られたという安心感」が欲しいだけだから、ということだった。
これは未来予期についての真に慧眼だと私は思う。
結局のところ私たちは「大丈夫そうだ」という「感覚」が欲しいだけなのだ。
「大丈夫そうだ」が得られていれば未来をまた元気に生きていける。
以前「人間は自由の感覚を欲している」という記事を書いたことがあったがそことも結びつき、詰まるところ人間にとって大事なのは感覚なのだ、と頭の中の整理も行われた。
参照:人間における最上の価値は、人間の欲望の本質である「自由の感度」だと知った。
日高山脈の地図なし登山で掴んだもの
角幡氏が、目の前の真の現実に対峙しその瞬間に入り込むことに人間の「生」が動き出す始原があるという認識を深め、その感覚が磨かれたエピソードは特に学びに富んでいた。
彼が北海道日高山で「地図なし登山」をした時の話だ。
「地図無し登山」
これは読んで字のごとく、地図をもたずに山を登るという行為である。
角幡氏は、日高山脈に行ったこともなければ行こうと思ったこともなかったという。
地図を詳細に眺めたこともなければ、何という名前があるのかも知らない。
知っていたのは、あまり人が入らない原始的な領域でエグい谷が刻まれているという見聞くらい。
角幡氏にとって完全に日高山脈は空白部だったのだ。
しかし、空白部を探検した時に人は何を見るのだろうか?そこに関心があったから登ったということだった。
では実際のところの地図なし登山は一体どうだったのか?
いくら谷筋を遡ってもいっこうに終わりが見えない。
日高山脈の谷は風聞で聞いていたとおり、深く抉れ、かつ泥と残雪で黒光りした岩壁に両岸をはさまれ、想像以上に悪い。
せまい峡谷にはもろく危険な雪渓がのこり、それを迂回するために壁のようにたちはだかる藪に突入し、泥だらけの汚い崖を這って登る。
それをひたすらくりかえさねばならなかったそうだ。
とにかく地図がないので、この危険で不快な作業がいつになったら終わるのか、というかこの谷を登ったら本当に何か山があるのかどうか?それすらもわからない。
「完全に未来を喪失した先の見えない状況だった」と角幡氏は述べている。
しかし、このような前進を続けて一週間ほどが経った時、
彼の目の前におよそ70mの大滝が現れ、その光景が圧巻で「おもむろに出現した山それ自体だった」と彼に言わせた。
「山それ自体」というのは、山が一切の事前情報から遮断されることで、ただその山として目の前にあるがままの純然たる姿で出現している山だということ。
登山をしたことがある人には言うまでもないが、通常の登山というのは地図を携えて行うものだ。
地図を見れば空間と時間が把握でき、それによって私たちは未来予期を手に入れることができる。
しかし、地図を持つ通常の登山というのは純然たる山それ自体と直面しているわけではない。
それはあくまでも地図がもたらす未来予期を通して現れた山を登っているにすぎないからだ。
未来予期のフィルターがかかるとある程度先のことが読めるようになる。
その結果として、混沌そのものであった山は整然と秩序だったものとなり、皆安心して登ることができるようになるのだ。
角幡氏は言った。
地図は山それ自体がもつ混沌や迫力を剥ぎ取ってしまうから「真の現実」に対峙していることにならないと。
真の現実に対峙するのはあまりにも憂鬱な行為であり、彼は日高山脈の地図なし登山後、もう2度とやりたくないと思い、まるまる2年間も中断したそうだ。
角幡氏は地図なし登山の他にも「極夜探検(*)」もされており、そこでも剥き出しの真の現実の混沌と直面したということだった。
*極地では、冬になると太陽が地平線の上に姿を見せなくなる「極夜(きょくや)」になり、逆に、夏は太陽が沈まない「白夜(びゃくや)」になるそうです。
真の現実というのは、混沌としていてとても耐えがたい。
しかしこれらの経験を通して、真の現実に対峙してその瞬間に入り込むことにこそ「生」が動き出す始原がある、という感覚を得たということだった。
そして、人間は未来予期を用いることで安心を得ている一方で、未来予期によって現実にフィルターをかけてしまうことで、生が動き出す瞬間を放棄してしまっている、という思考に磨きをかけていったという。
以上は、エクストリームな人生を送る角幡氏だからこそ得られたオリジナル思考法で、私が同じようにしようとしても決してならない。
しかし、この思考法はこれまでの私の考えてきたことや振る舞いとの接点を感じるもので「これから先の人生において極めて重要なものになる」と直感的に思ったのだ。
「狩りの思考法」はこれからの時代の生き方を考えるのにきっと役に立つはず
話は冒頭の私が「未来予期をしない行動」を意識的に取り入れるようなことをしてきたについてだ。
例えば、20代半ばの頃。
その頃「デジタルデトックスだ」と称して、スマホを完全にオフにして「五島列島」を旅した記憶は今もなお鮮明に覚えている。
旅先を予め調べることも、宿を予約することもせず、とりあえずテント一つだけを持って行き、目の前に起こることからその先のアクションを決めていた。
宿が見つからなかったからテントで寝たこともあれば、物凄く入りづらそうな一見さんお断り感満載の居酒屋に単身で乗り込むなどして、偶然にも朝まで大将と飲み明かすなんてこともあった。
現地情報は歩いて、見て聞いて集めるとしていて、普段の情報源であるスマホは完全にオフにしていたので「あのーちょっとお尋ねしたいんですが・・・」と多くの人に声をかけることもした。
そこでは無下に扱われてしまうこともあったし、想像以上に優しくしてもらうことも。
これらの直面するどの現実もがエキサイティングで私は多くの学びを得た。
そして、そこで経験したことが私の記憶に今もなお微細に残っているのだ。
今あらためて振り返ってみて思うに、未来予期というフィルターを通さないで触れた真の現実というのは頭と身体によく刻まれる。
一方で、未来予期を通した仮象の現実はそうはならず早々と頭と身体から忘却されていく。
こうなるのには角幡氏の言う「生」が動き出しているか否かが関係しているように私は思うのだ。
現在のメガトレンドは間違いなく「Web3」と言って差し支えないだろう。
細かいことは端折るが、ざっくり言うとWeb3の一つの側面に「リアルよりもバーチャルの時間が圧倒的に長くなる」があると私は解釈している。
大人のおしゃぶりと言われるように現代人の多くが「スマホ」というデバイスに釘付けだが、これもそろそろ変わる時が来た感じなのだろう。
私たちをバーチャル空間に誘う、スマホ以上のおしゃぶりがやってくるのだ。
この変化が人類にとって良いことなのか悪いことなのか、私にはまだその審判は当然できないし、的確にできる人もまだいないと思う。
「自由を求める人間が進む道だ」といえば、なんら不思議なことでもない。
ただ角幡氏の思考もふまえた時、一つ言えそうなこととして、web3の世界はどこまでいってもその現実は仮象で、今以上に未来予期漬けになっていくのだろう。
そしてその世界において、本当の意味での「生」を感じることができるのかについては私には疑問が残る。
本当の意味での「生」が動き出す瞬間を求めるかどうかはその人次第だろう。
人間は快楽を求め、苦痛からは逃れるようにできているのだから好きなようにすればいいと私は思う。
でも、もしも本当の意味での「生」を求めていきたい、と言うのであれば「狩りの思考法」を読んでみることを私はオススメしたい。
これからの時代の生き方を考えるのにきっと役に立つはずだから。
Photo by Fredrik Solli Wandem on Unsplash
【著者プロフィールと一言】
著者:田中 新吾
プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|プロジェクトデザイナー|タスクシュート認定トレーナー|WebメディアRANGER(https://ranger.blog)管理人|ネーミングの仕事も大好物|白湯の魅力や面白さをお伝えする活動もしています(@projectsau)
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
「狩りの思考法」を題材にして書きたいことはまだあるので、もしかたらまた別の機会に書くかもしれません。
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