大きいものに屈しはしない。~あまのじゃくのすすめ~
人は常に大きいものに憧れて、その大きさに安心や権威を感じるものだ。
体が大きい人に対しては、危険を避けるため従順であらねばならないと感じるし、大きい車を所有している人を見るとお金持ちだと思い、勝手に引け目を感じたりする。
私の父親は、買い物に迷った時に「大は小を兼ねる」という言葉に頼って決断していた。
この口癖に子供の頃の私は違和感を覚えた。
「大」がいいとは一概に言えないだろう。
反意のことわざに「畳針で着物は縫えぬ」というのもある。
ことわざを学ぶことが無意味だと思い始めたのは、このようなところからだったかもしれない。
学生の頃は、大企業こそが安定していて良い選択である、という多勢の声を疑うことはなかった。
今では、一概によい選択だとは言えないと実感するようになった。
親はまた、あまのじゃく(天邪鬼)という言葉をしばしば私に使うことがあった。
あまのじゃくとは、ひねくれた性格という意味のこと。
人の意見に反対したり人からの称賛を喜ばなかったり、などの態度をとる人のことである。
参照:天邪鬼
家族に合わせないと、家族が一緒に行動できないから、「鬼が出てきた」という非常に悪いことのニュアンスでもって、周りに合わせるように強要することがあった。
このことならまだしも、一緒に行動する必要がないことに対してでも、意見が一致しなかっただけで「おかしい」と非難されたりもした。
この言葉を使って異端を是正していくことも人間の生きる知恵なのだろうとは思うが、納得がいかなかった。
私は、あまのじゃくをわがままの一種にくるめて、子供が大人になるまで消し去らないとならない、と思い込んできたところがある。
しかしどうも違ったようだ、と今になって思う。
あまのじゃくに似た意味の言葉には、
「へそ曲がり」「ひねくれ者」「偏屈」「つむじ曲がり」「根性曲がり」「わからずや」
などがあり、これらは批判的な言葉なのだが、その言葉には賞賛的な意味合いも含まれているはずなのだ。
現代の「ヤバい」という言葉にも昔にはなかったいろいろな意味があるように。
私が抑制してきたあまのじゃくの一部を解放しながら、賞賛的な意味合いを正当化してみたい。
大企業というもの
大店舗ができることで、「商店街がシャッター通りになった」というニュースを聞くようになった。
大店舗の大手チェーン店は、多くの人がいいと思う商品を、大量に仕入れて安く売る、というスケールメリットを活かすことができる。
これによって、消費者側は安くて便利なものを購入できて、多くの人が恩恵を受けてきた。
この大店舗は合理化を進めることで、業績をどこまででも上げ続けようとする組織であるから、一方ではその弊害も起こりうる。
大店舗は、土地がやせるなどの自然に負荷がかかる大量で安価な商品を生産者に要求する。
食べ物の例でいうと、生産者はその要求に支配されるようになっていて、短期間で大量に作ることを余儀なくされる。
そのために農薬や化学肥料を撒き、加工品の製造者は保存期間を長くするために保存料として添加物を入れたものを生産する。
表面的な効率性を徹底的に上げさせられる。
農薬や添加物は、急には健康被害が現れないものだし、因果関係が証明しづらい。
ただ、因果関係が証明されていないからといって、因果関係がないとは言い切れない。
※因果関係があるとする研究結果も出てはいる。
日々の積み重ねの末に、後から因果関係がはっきりしたとしても時既に遅しである。
ここに落とし穴がある。
特に身体に入れるものについては警戒をしたほうがいい。
約50年前に書かれた資本主義批判の有名な本にマルクスの『資本論』がある。
その中では「構想と実行の分離」を機械化した大企業の問題としてあげている。
大企業は、以前は職人が1人で行っていた、商品やサービスを提供するまでの一連のプロセス-構想、設計、製作、販売といった工程-を細かく作業区分した。
この作業区分によって、各作業の専門担当が生まれて担当の付け替えが可能となり、労働者同士の競争をつくることで、より安い賃金で働かせることができるようになった。
そして何よりも、人間が充実感や誇りを感じられる「構想と実行」の通貫が壊され、人間の幸せが奪われた。
これはお金のために、効率性のために、人間が本来味わっていたはずの別の幸せが奪われていった一例だ。
また、こんな話もある。
アメリカの保険会社は、買収買収で寡占化が進み、企業が大きくなった。
その結果、各州で選択できる会社が1~2社になってしまい、企業同士の競争がなくなって、消費者が高い保険料を払わざるを得ない状態になってしまった。
こちらは、価格の値上がりによってお金が奪われる一例だ。
これらは大手企業が悪者だ、ということを言いたいのではなくて、資本主義というしくみがそうなっているということであって、資本主義というしくみの欠陥であると言いたい。
世界のグローバル化、欧州連合(EU)なども同様に組織が大きくなることであり、やはり、資本主義の欠陥によって危険が広範囲に広がっていく。
TVというもの
前回、読書の効能について触れたが、教養を得る、あるいは必要な知恵を得るという目的で、読書とTVを比較した場合、TVから得られるものはわずかになったと私は感じている。
TVは視聴率を上げることで収益を上げる会社で、前提として多くの人が見たい番組を提供するようにできている。
社会のひどい現実を映し出しては国民の不満が表出するから避けるし、株価を下げないためにもTV局が批判されるような内容を放送することを避ける。
世の中には白黒つかない物事が多くあるから、反対意見と賛成意見、いい部分と悪い部分、その両面を見せてやっと解決に向けてスタートを切るものであるにもかかわらず、放送倫理にうたわれているこのことは現実には実行されない。
十分に深い議論がされることも真相を知ることもない。
TV局の都合のいいことを正解と決めて、その内容を話す人をコメンテーターとして引っ張ってくる。
これらを民衆に植え付けて大勢の意見=世論というものを作り上げるに至る。
無知な民衆に、我々が教えてやるんだ、という感覚をTV局は未だに持っているとも聞く。
何も考えないですぐに正解が欲しい国民にとってもこれは好都合なことである。
作られた世論の反対意見は抹殺されていく。
A局とB局で見解が異なることが少ないことも気持ち悪いし、それでは局が分かれている意味がわからない。
スポンサーそしてスポンサーになって欲しい、特に大手企業に対しての批判は、徹底して避けるようにもなっている。
合理化、不都合な真実の除外、忖度などによって加工された情報が、さも真実であり教養であるように装飾されて提供されている。
食品に例えて言うと、ホルモン剤にどっぷり、添加物をたっぷり、絶対に腐らない、超加工品という本物とは程遠いものと言ったところだろうか。
もし、この世の中が買収によって、大手企業一社しか残らなかったとしたら、TVによってその大手企業の不祥事は矮小化され、大手企業の美しい部分のみが宣伝され、その大手企業がTVによって神格化される。
世論としての大手企業神話が創作されて、神のやりたい放題が始まり、新たな神に国民は支配されることになる。
山本夏彦の著書『とかくこの世はダメとムダ』では、このことについてこんな表現をしていた。
あらゆる表現は金銭で売買されている。
われわれは金銭で売買されない言論を読む機会を全く持たない。
テレビに出る言論者はテレビ局から給与を得ているわけではないから、社員ではない。
招集されて手数料が発生するから、雇用関係ではなく主従関係に当たる。
家来がご主人様の意向に沿った表現をするのは至極当然のことである。
※実際の文章を私の理解で加工している部分あり。
これは昭和40年代に書かれたコラムで、TVが家庭に普及し始めて、資本主義イケイケだった時代、それは私にとってはTVで見るものが世界のすべてだった時代に、このしくみをよくもまあこれだけシャープに浮き出させられたものだ、と感服する。
「テレビを見ると馬鹿になる」「タダより高いものはない」などと言われるが、無料で見ることができて、繰り返し流される情報によって、情報が刷り込まれ、みんなの中に一律の価値観が出来上がっていく。
TV局は、他の企業と同様に倫理的であることが最終の目的ではない。
みんなが賛成している(=多数決)ということをもって決定していくのが、民主主義というものだが、情報源の不完全さや情報の刷り込みによる世論操作を知ってしまうと民主主義というものに対して懐疑的にならざるを得ない。
これもTV局が悪者と言いたいのではなくて、資本主義というしくみの上のTV局というしくみがそうさせるようにできているのだ。
このようにして見ると、情報源は本を中心とした他のものであることが必然であり、本を読まない人は情報操作されるだけであることがうなづける。
『生きること考えること』著:田中 美知太郎 より。
テレビや新聞やラジオ、(現代で言うとインターネット)は、偏見を絶えず私たちに吹き込んでいるのである。
したがってわたしたちは、特別な努力をしなければ、自分でものを考えることができないのであって、いつも他のものによって、勝手に自分の考えを操られているに過ぎない。
すなわち自由に考えるということは、恐ろしい仕事なのである。
人々はむしろ騙されることに、自分自身の善良さを見ようとするのかも知れない。
模倣と独立
夏目漱石の講義『模倣と独立』では、人間が生きるには模倣と独立の両方が必要であり、模倣だけで生きることを否定はしない、ということを前提としながらも、当時の日本に模倣だけで生きている人が多いことに警鐘を鳴らしていた。
世論や常識に身を合わせて生きることは模倣でしかなくて、自分で新たに創造することでやっと独立に至る。
新たな発見、創造は、これまでの常識の否定であり、一般に広まるまでは常に異端であり続ける。
独立するには、異端として相手にされない苦痛の時期を必ず経験しないといけない。
ずっと誰からも指示されない異端で終わる可能性もある。
独立はリスクが伴うものでもあるのだ。
いずれにしても、みんながそうだということを懐疑的に観るところから、独立への道が始まっていく。
あまのじゃく宣言
繁栄をもたらしてきた資本主義というしくみは、企業をどこまでも大きくするという目的に人間を誘惑する。
これによって欠陥が露呈する。
まずは、このしくみを教養として知っておく必要がある。
その上で、以下の2点の理由から、私は、大きなものを疑い、大きなものに少し距離をおきながら生活することを選択している。
・資本主義の欠陥から起こる危険に抗するため。
・模倣してではなく、独立して生きるため。
この欠陥を補うために私が具体的にできることとは何なのか?
・定番商品を選ばない。
・マイナーな会社の商品を選ぶ。※大差がなければ
・小さい会社の商品を選ぶ。※大差がなければ
・広告が少ない商品を選ぶ。※大差がなければ
・希少なものを選ぶ。
・無名で優れたものを見つける。
無力ではあるかもしれないが、わずかながら抵抗する。
一般的にこれらのことは、コスパを無視した合理的ではない選択かもしれない。
合理的な選択は必要ではあるが、合理的な選択の積み重ねによって別の問題が起こる。
だから、合理的でない選択もした方がいい。
あるいは、このような社会のしくみを見ると、目の前の合理的な判断は中長期的にみて本当に合理的な判断なのか、怪しいという面もある。
みんなが口にする「コスパだよね、コスパ」という言葉、これは私にとって鬱陶しい響きに変わった。
非コスパ購買をみんなが少しずつでもやっていけるのならば、分散が進み、大きいものとのバランスが取れていくはずだ。
模倣は効率はいいが、模倣による価値感の一極集中は少数権力を増強し、権力による支配を強める方向に進む。
一方の独立は効率は悪いが、分散によって自由度が高まる方向に進む。
みんなが少しずつ独立のリスクを負担し合えば、そして、みんなが少しずつ模倣でなく創造していけば、社会は集中せずに、大・中・小の多様性が保たれるのではないだろうか?
そしてこのことによって、われわれのそれぞれの”らしさ”が発揮される人間本来の幸せな社会に近づいていくのではないだろうか?
ビジネスにおいて新製品を生み出すためには、「コペルニクス的転換」が必要だと言われたりする。
物事を逆にみる、あるいは、別次元からみることで着想して、新しい創造が生まれる。
「あまのじゃく」も「コペルニクス的転換」という言葉に変わって英雄にもなりうるはずだ。
従順で素直であることは、支配されているということだから、実は不健全で不健康なのである。
独立したあまのじゃくであることが、健全で健康なのだ。
話は少し違うが、昨日、届いた「姿勢を矯正してくれる椅子」の説明文にあった内容が思い出される。
肉体労働が中心だった時代の休憩するための椅子と現代の椅子では役割が変わった。
これからは身体が椅子に合わせるのではなく、椅子が身体に合わせる時代なのだ。
これも広い意味では「コペルニクス的転換」のひとつと言える。
私はこのような異端が大好きだ。
無名、非効率、不便、リスクなどの異端をあえて選ぶという転換。
更に加えるとあまのじゃくの私は、土用の丑の日にうなぎを食べない。
その日に食べたいものを食べる。
年賀状も出さない。
初詣は前年のうちに済ませる。
みんながやっていることをやらない。
そして、「若い人がテレビ離れしている」というニュースが、私には微笑ましく映るのだ。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
丁度これと関連の話をしていた時にフィエ・グリという品種で造られたワインを紹介していただきました。
これは大量に実をつけない品種のため、多くの生産者が栽培をやめたらしいのですが、この生産者は樹齢100年にもなるこのフィエ・グリを栽培し、そこからワインを生産し続けているようです。
あまのじゃくとしては即買いでした。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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